「アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス (紀元前503年の執政官)」の版間の差分

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{{Infobox 共和政ローマ
'''アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス'''(Agrippa Menenius Lanatus、[[紀元前493年]]没)または'''メネニウス・アグリッパ'''は[[共和政ローマ]]の[[紀元前503年]]の[[執政官]](コンスル)である。同僚執政官は[[プブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥス]]であった。執政官在任中に[[サビニ族]]との[[ローマ・サビニ戦争#紀元前503年の戦争|戦闘に勝利]]しており、紀元前503年4月4日に[[凱旋式]]を実施したことが、[[凱旋式のファスティ|凱旋式記録碑]]に記されている。前日にはトゥベルトゥスも[[小凱旋式]]を実施している。歴史家[[ティトゥス・リウィウス]]([[紀元前59年]]頃 - [[17年]])によれば、両執政官ともに[[ラティウム戦争]]の[[ポメティアの戦い]]([[:en:Battle of Pometia|en]])にも勝利したとする<ref>[[ティトゥス・リウィウス]], 『[[ローマ建国史]]』[[s:From the Founding of the City/Book 2#16|II. 16]], [[s:From the Founding of the City/Book 2#32|32]], [[s:From the Founding of the City/Book 2#33|33]].</ref><ref>[[ウィリアム・スミス (辞書編集者)|ウィリアム・スミス]]、『[[:en:Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology|Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology]]』</ref><ref>[[凱旋式のファスティ]]</ref>。
|人名=アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス<br>Agrippa Menenius Lanatus<br>(Agrippa Menenius C. f. Lanatus)
|出生=不明
|死没=[[紀元前493年]]
|出身階級=[[パトリキ]]
|氏族名=[[メネニウス氏族]]
|官職=[[執政官]]<span style="font-size: smaller">(紀元前503年)</span>
|指揮戦争=[[ポメティアの戦い]]<span style="font-size: smaller">(紀元前503年)</span>
|後継者=[[アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス (紀元前439年の執政官)|アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス]]
}}
'''アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス'''({{lang-la|Agrippa Menenius Lanatus}}、[[紀元前493年]]没)または'''メネニウス・アグリッパ'''は[[共和政ローマ]]の政治家、軍人。[[紀元前503年]]の[[執政官]](コンスル)を務めた。
 
==経歴==
リウィウスの著作は500年も後に書かれたものではあるが、メネニウスは[[紀元前494年]]の第一次[[プレブス]](平民)の分離運動([[モンテ・サクロ]]に立て篭もり、平民だけで国を作ると宣言した)の際に、[[パトリキ]](貴族)の代表に選ばれて、プレブスたちのもとに足を運び、有名な弁解を交えた説得を行なった。即ち、社会を人体に喩え、それぞれの部分が全体の利益のために担うべき役割がある。体の他の部分は、胃が「ただ乗り」していると考え、体は胃に栄養を止めることにしたが、すぐに体の他の部分は飢餓状態となり機能しなくなってしまった。そこで初めて胃が重要な働きをしており、それ無しでは何も出来ないと気付いた。この寓話では、パトリキが胃であり、プレブスは体の他の部分に例えられている。その後、パトリキとプレブスは和解し、[[護民官]]の制度が作られた<ref name=Livy-2.33>リウィウス、[[s:From the Founding of the City/Book 2#33|2.33]]</ref>。
===コンスルシップ===
紀元前503年、メネニウスは執政官に就任した。同僚は[[プブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥス]]であった。歴史家[[ティトゥス・リウィウス]]([[紀元前59年]]頃 - [[17年]])によれば、この年、[[ラティウム同盟]]のポメティアとコラが離反し、[[ラティウム]]南東に居住するアウルンキ人についた。両執政官ともに[[ラティウム戦争]]の{{仮リンク|ポメティアの戦い|en|Battle of Pometia}}に勝利し、[[凱旋式]]が挙行されたとしている<ref>[[ティトゥス・リウィウス]], 『[[ローマ建国史]]』[[s:From the Founding of the City/Book 2#16|II. 16]], [[s:From the Founding of the City/Book 2#32|32]], [[s:From the Founding of the City/Book 2#33|33]].</ref>
 
一方、リウィウスとほぼ同時代人の[[ハリカルナッソスのディオニュシオス|ディオニュシオス]]によると、この年[[サビニ人]]が三度目のローマ侵攻を企て、まずトゥベルトゥスが繰り出したものの敵を侮り敗北した。そこへメネニウスが駆けつけ救援し、後日力を合わせて敵を打ち破り、メネニウスが凱旋式を、トゥベルトゥスが[[小凱旋式]]を挙行したとしている<ref>[[ハリカルナッソスのディオニュシオス|ディオニュシオス]],『ローマ古代誌』IV 44-47</ref>。
聖[[パウロ]]もこの寓話を知っていたようで(リウィウスを通じてかは分からないが)、彼の[[コリントの信徒への手紙一]]の中の[[たとえ話|説話]]でこの話を使っている。しかし、このたとえ話はリウィウスの時代でも新しいものではなく、[[クセノポン]](紀元前427年?-紀元前355年?)の『[[ソクラテスの思い出]]』(2.iii.18)や[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]の『義務について』(III.v.22)にも似た話がある。
 
[[凱旋式のファスティ|凱旋式記録碑]]には、執政官在任中にサビニ族との[[ローマ・サビニ戦争#紀元前503年の戦争|戦闘に勝利]]し、紀元前503年4月4日に[[凱旋式]]を実施したことが記されている。前日にはトゥベルトゥスも[[小凱旋式]]を実施している<ref>[[ウィリアム・スミス (辞書編集者)|ウィリアム・スミス]]、『[[:en:Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology|Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology]]』</ref><ref>[[凱旋式のファスティ]]</ref>。
メネニウスがパトリキであったのかプレブスであったのかは謎である。リウィウスは「彼は雄弁な男であり、生まれつきプレブスであるかのように彼らを愛した」と書いている。他方で、彼は[[元老院]]の代表としてプレブスの説得に赴き、さらには執政官を務めていた。当時の執政官はパトリキだけが就任できると考えられている。初期のローマの歴史に関しては、(現在では失われてしまった)原資料が公平に吟味されていないことも多く、その著者が元老院議員であったか一般市民であったかでバイアスがあり、不明な点も多い。現代の学者の中には、ローマ初期にあったとされるパトリキとプレブスの紛争が事実かどうかを疑うものもいる<ref>Survey by A. Drummond, "Rome in the fifth century II," ch. 5, ''The Cambridge Ancient History'', Vol. 7.2, The Rise of Rome.</ref>。
 
===聖山事件===
メネニウスは紀元前493年に死去した。リウィウスは彼が元老院からもプレブスからも愛された(特に説得成功後には)としている。彼の残した資産では葬儀を行うに十分ではなかっため、市民達は争議費用を奉納の形で負担した<ref name=Livy-2.33/>。
リウィウスの著作は500年も後に書かれたものではあるが、メネニウスは[[紀元前494年]]の第一次[[プレブス]](平民)の分離運動([[モンテ・サクロ]]に立て篭もり、平民だけで国を作ると宣言した)の際に、[[パトリキ]](貴族)の代表に選ばれて、プレブスたちのもとに足を運び、有名な弁解を交えた説得を行なった。
 
即ち、社会を人体に喩え、それぞれの部分が全体の利益のために担うべき役割がある。体の他の部分は、腹が「ただ食べるだけで何もしない」と考え、体は腹に食物を運ぶのを止めることにしたが、すぐに体の他の部分は飢餓状態となり機能しなくなってしまった。そこで初めて腹はただ養われているだけでなく、血を全身に送り出す重要な働きをしており、それ無しでは何も出来ないと気付いた。
メネニウスには息子が一人あり(アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス)、紀元前439年には執政官になっている<ref>[[:en:F. W. Walbank|Walbank, F. W.]], A. E. Astin, M. W. Frederiksen, and R. M. Ogilvie. ''The Cambridge Ancient History'', Cambridge University Press 1990. {{ISBN|0-521-23446-8}}.</ref>。
 
この寓話では、パトリキが腹であり、プレブスは体の他の部分に例えられている。その後、パトリキとプレブスは和解し、[[護民官]]の制度が作られた<ref name=Livy-2.33>リウィウス、[[s:From the Founding of the City/Book 2#33|2.33]]</ref>。
 
聖[[パウロ]]もこの寓話を知っていたようで(リウィウスを通じてかは分からないが)、彼の[[コリントの信徒への手紙一]]の中の[[たとえ話|説話]]でこの話を使っている。しかし、このたとえ話はリウィウスの時代でも新しいものではなく、[[クセノポン]](紀元前427年?-紀元前355年?)の『[[ソクラテスの思い出]]』(2.iii.18)や[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]の『義務について』(III.v.22)にも似た話がある。
 
===死後===
メネニウスは紀元前493年に死去した。リウィウスは彼が元老院パトリキからもプレブスからも愛された(特に説得成功後にはプレブスに一層愛されたとしている。彼の残した資産では葬儀を行うに十分ではなかっため、市民達は争議葬儀費用を奉納の形で少しずつ持ち寄り負担したという<ref name=Livy-2.33/>。
 
メネニウスには息子が一人あり(アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス)、紀元前439年には執政官になっている<ref>[[:en:F. W. Walbank|Walbank, F. W.]], A. E. Astin, M. W. Frederiksen, and R. M. Ogilvie. ''The Cambridge Ancient History'', Cambridge University Press 1990. {{ISBN|0-521-23446-8}}.</ref>。ただし、子ではなく孫とする説もある
 
メネニウスはまた[[シェークスピア]]の『[[コリオレイナス]]』の登場人物の一人である。
 
==出自==
メネニウスがパトリキであったのかプレブスであったのかは謎である。リウィウスは「彼は雄弁な男であり、生まれつきプレブスの生まれであるかのように彼らを愛した」と書いている。他方でしかしながら、彼は[[元老院 (ローマ)|元老院]]の代表としてプレブスの説得に赴き、さらには執政官を務めていた。当時の執政官はパトリキだけが就任できると考えられている。初期のローマの歴史に関しては、(現在では失われてしまった)原資料が公平に吟味されていないことも多く、その著者が元老院議員であったか一般市民であったかでバイアスがあり、不明な点も多い。現代の学者の中には、ローマ初期にあったとされるパトリキとプレブスの紛争が事実かどうかを疑うものもいる<ref>Survey by A. Drummond, "Rome in the fifth century II," ch. 5, ''The Cambridge Ancient History'', Vol. 7.2, The Rise of Rome.</ref>。
 
==参考資料==
771

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