「劉因」の版間の差分

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==生涯==
保定容城([[河北省]][[保定市]][[容城県]])の出身。幼時から天性が優れ、3歳で字を識別して読んだものをすぐに暗誦し6歳で詩を写し取り7歳で文を作ったという。至元19年([[1282年]])に承徳郎・右善大夫となったが、まもなく母が病気となったため辞任して故郷に帰った。至元28年([[1291年]])に集賢学士・嘉議大夫に任命されたが自分が病気がちであるのを理由に固辞し、至元30年4月に没する。延祐年間に翰林学士を贈られ、容城郡公に追封された。
 
その人柄は清廉で、貧しい中で子弟を教える生活に甘んじ、[[諸葛亮|諸葛孔明]]の「静以修身」の語を愛し、住居を「静修」と名づけたほどだった。[[フビライ]]の招聘に結局は応ぜず、友人の[[許衡]]が応じたことにも反対した。劉因を訪問した許衡が、自分が元朝に仕えることについて「かくの如くなければ、道行われず」と説いたのに対し、劉因は自分の拒絶の理由を「かくの如くなければ、道尊からず」と答えたという。
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