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'''大炊御門 師前'''(おおいのみかど もろさき、[[嘉永]]6年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]([[1853年]][[11月25日]])-[[大正]]15年([[1925年]])[[5月18日]])は、[[幕末]]・[[明治]]期の公家・官吏。[[大炊御門家信]]の長男。子に重孝(後の[[一条実孝]])がいる。
'''大炊御門 師前'''(おおいのみかど もろさき、[[嘉永]]6年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]([[1853年]][[11月25日]])-[[大正]]15年([[1925年]])[[5月18日]])は、[[幕末]]・[[明治]]期の公家・官吏。[[大炊御門家信 (江戸時代の公卿)|大炊御門家信]]の長男。子に重孝(後の[[一条実孝]])がいる。


[[安政]]3年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]([[1857年]][[1月17日]])に叙爵を受け、明治2年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]([[1869年]][[4月17日]])に[[右近衛権中将]]、同年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]([[8月20日]])に[[従三位]]に叙せられる。
[[安政]]3年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]([[1857年]][[1月17日]])に叙爵を受け、明治2年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]([[1869年]][[4月17日]])に[[右近衛権中将]]、同年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]([[8月20日]])に[[従三位]]に叙せられる。

2017年5月26日 (金) 23:05時点における版

大炊御門 師前(おおいのみかど もろさき、嘉永6年10月25日1853年11月25日)-大正15年(1925年5月18日)は、幕末明治期の公家・官吏。大炊御門家信の長男。子に重孝(後の一条実孝)がいる。

安政3年12月22日1857年1月17日)に叙爵を受け、明治2年3月6日1869年4月17日)に右近衛権中将、同年7月13日8月20日)に従三位に叙せられる。

ところが、明治17年(1884年2月4日大炊御門家を廃嫡になる。公式の届出は病気を理由とするが、実子の一条実孝によれば祇園での放蕩による2,000円の借財問題と五辻安仲に陥れられたことによるという[1]

廃嫡後の師前は息子の実孝とともに山岡鉄舟に剣術を学んでいたが、その腕前を評価した山岡が三島通庸に推挙して警視庁に採用され、明治21年(1888年)には京橋警察署の外勤警部としてその名が記されている。廃嫡後も従三位の位階はそのままであったため、当時の警察ではもっとも位階が高い人物になっていた[2]。その後、間もなく警視庁を辞任しているが、師前が文部大臣森有礼の担当警護官であったことが知られている[3]ため、松田敬之は明治22年(1889年)に森が暗殺された責任を取ったのではないか、と推測している[4]

その後は大炊御門家の庇護を受け、大正4年(1915年)の大正天皇即位の大礼に際して、典儀官に任じられている。

脚注

  1. ^ 有馬頼寧 他『公家・将軍・大名』東西文明社、1958年「公家長屋」による一条実孝の証言
  2. ^ 松田、2008年、P49-50
  3. ^ 一条実孝・小倉鉄樹(山岡鉄舟門人)の証言
  4. ^ 松田、2008年、P51

参考文献

  • 松田敬之『次男坊たちの江戸時代-公家社会の〈厄介者〉-』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー246、2008年) ISBN 978-4-642-05646-5 P39-53 「「公卿剣客」として再起した厄介」