「セント・オールバンズの戦い (1461年)」の版間の差分

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2017年3月29日 (水) 10:17時点における版

セント・オールバンズの戦い
戦争薔薇戦争
年月日1461年 2月22日
場所イングランドハートフォードシャーセント・オールバンズ
北緯51度45分18秒 西経0度20分9.6秒 / 北緯51.75500度 西経0.336000度 / 51.75500; -0.336000
結果:ランカスター派の勝利
交戦勢力
ヨーク家 ランカスター家
指導者・指揮官
ウォリック伯
モンターギュ男爵(捕虜)
ボンヴィル男爵 処刑
サー・トマス・キリエル 処刑
ほかブルゴーニュ傭兵500
マーガレット王妃
サマセット公
エクセター公
ノーサンバランド伯
シュルーズベリー伯
デヴォン伯
クリフォード男爵
ルーシュ男爵
フェラーズ男爵 
アンドリュー・トラロップ
ほかスコットランド兵
戦力
10,000以下 15,000以下
損害
4,000 2,000
薔薇戦争
セント・オールバンズの戦い (1461年) の座標 TL147073
セント・オールバンズの戦い (1461年) 座標: TL147073)場所

(第2次)セント・オールバンズの戦い(Second Battle of St Albans)は、薔薇戦争中の1461年2月22日、セント・オールバンズの街の近くで行われた戦闘。

戦闘の背景

ヨーク公リチャード1460年12月のウェイクフィールドの戦いで戦死し、後を継いだ18歳になる息子のマーチ公エドワード(後のエドワード4世)は、その直前に西で行われたモーティマーズ・クロスの戦いに参加していて忙しかった。となるとマーガレット王妃率いるランカスター派にとってとるべき道は明確である。ランカスター派はロンドンを強襲するため、南進を開始した。

戦闘の様子

ランカスター派の進軍は、ウォリック伯指揮下のヨーク派軍によってセント・オールバンズの近くで妨げられた。ウォリックは防衛のための軍備・陣容を整えていたが、ランカスター派の思わぬ方向からの出現に驚き、打ち負かされた。

戦闘の結果

この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王ヘンリー6世(戦場にいたといっても恐らく木の下で歌でも歌っていたのであろうが)はランカスター派に連れ戻された。だが、ロンドンへの進軍は強行されなかった。ランカスター派による略奪行為のうわさのためロンドン市民がその城門が閉ざしたようで、このため王妃は躊躇した。またマーチ公エドワードがモーティマーズ・クロスの戦いで勝利したニュースもその原因となった。

マーチ公エドワードとウォリック伯は3月2日にロンドンに入り、マーチ公エドワードがイングランド王として宣告された。

参考文献