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'''ピピン2世'''([[ドイツ語]]:'''<span lang="de">Pippin der Mittlere</span>''', [[635年]]もしくは[[640年]] - [[714年]][[12月16日]])は、[[フランク王国]]の[[宮宰]](在職:[[680年]] - [[714年]])。「'''中ピピン'''」とも呼ばれる。[[ピピン1世]](大ピピン)の娘[[ベッガ]]とその夫[[アンゼギゼル]]([[メス (フランス)|メッス]]司教アルヌルフの子)の子。 |
'''ピピン2世'''([[ドイツ語]]:'''<span lang="de">Pippin der Mittlere</span>''', [[635年]]もしくは[[640年]] - [[714年]][[12月16日]])は、[[フランク王国]]の[[宮宰]](在職:[[680年]] - [[714年]])。「'''中ピピン'''」とも呼ばれる。[[ピピン1世]](大ピピン)の娘[[ベッガ]]とその夫[[アンゼギゼル]]([[メス (フランス)|メッス]]司教アルヌルフの子)の子<ref>佐藤、p. 8</ref>。 |
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680年からピピンは[[アウストラシア]]、[[ネウストリア]]、[[ブルグント]]の宮宰を兼ね、徐々に[[フランク人|フランク族]]の宮廷内での権勢を増していった。[[メロヴィング朝]]の[[フランク王の一覧|フランク王]][[テウデリク3世]]は彼を排除しようとしたが失敗に終わり、以後ピピンはアウストラシアの事実上の統治者となり、ほかのフランク族たちへの影響力も維持し続けた。また宮宰職の世襲化にも成功した。 |
680年からピピンは[[アウストラシア]]、[[ネウストリア]]、[[ブルグント]]の宮宰を兼ね、徐々に[[フランク人|フランク族]]の宮廷内での権勢を増していった。[[メロヴィング朝]]の[[フランク王の一覧|フランク王]][[テウデリク3世]]は彼を排除しようとしたが失敗に終わり、以後ピピンはアウストラシアの事実上の統治者となり、ほかのフランク族たちへの影響力も維持し続けた<ref>成瀬 他、p. 62</ref>。また宮宰職の世襲化にも成功した。 |
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670年頃、ピピンは[[モーゼル]]の地主[[プレクトルード]]と結婚し、息子のドラゴ、[[グリモアルト2世]]をもうけた。ピピンが死去した時、二人の息子はすでに死去していたが、グリモアルト2世の子テオドアルドは自らが正統な後継者であるとしてプレクトルードの援助のもと宮宰職を要求した。しかし側室[[アルパイダ]](カルパイダ)との間に生まれた庶子の[[カール・マルテル]]は、軍事的才能と戦利品を気前よく配ったことによりアウストラシアの支持を得た。結果、プレクトルードとその子らの努力にも拘らず、カール・マルテルがアウストラシア宮宰およびフランク王国の事実上の支配者となった。 |
670年頃、ピピンは[[モーゼル]]の地主の一族出身の[[プレクトルード]]と結婚し<ref>佐藤、p. 10</ref>、息子のドラゴ、[[グリモアルト2世]]をもうけた。ピピンが死去した時、二人の息子はすでに死去していたが、グリモアルト2世の子テオドアルドは自らが正統な後継者であるとしてプレクトルードの援助のもと<ref>柴田 他、p. 154</ref>宮宰職を要求した。しかし側室[[アルパイダ]](カルパイダ)との間に生まれた庶子の[[カール・マルテル]]は、軍事的才能と戦利品を気前よく配ったことによりアウストラシアの支持を得た。結果、プレクトルードとその子らの努力にも拘らず、カール・マルテルがアウストラシア宮宰およびフランク王国の事実上の支配者となった。 |
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== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* 佐藤彰一 『世界史リブレット人29 カール大帝』 [[山川出版社]]、2013年 |
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* 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年 |
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* 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』山川出版社、1997年 |
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== 関連項目 == |
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2017年1月9日 (月) 12:52時点における版
ピピン2世(ドイツ語:Pippin der Mittlere, 635年もしくは640年 - 714年12月16日)は、フランク王国の宮宰(在職:680年 - 714年)。「中ピピン」とも呼ばれる。ピピン1世(大ピピン)の娘ベッガとその夫アンゼギゼル(メッス司教アルヌルフの子)の子[1]。
生涯
680年からピピンはアウストラシア、ネウストリア、ブルグントの宮宰を兼ね、徐々にフランク族の宮廷内での権勢を増していった。メロヴィング朝のフランク王テウデリク3世は彼を排除しようとしたが失敗に終わり、以後ピピンはアウストラシアの事実上の統治者となり、ほかのフランク族たちへの影響力も維持し続けた[2]。また宮宰職の世襲化にも成功した。
670年頃、ピピンはモーゼルの地主の一族出身のプレクトルードと結婚し[3]、息子のドラゴ、グリモアルト2世をもうけた。ピピンが死去した時、二人の息子はすでに死去していたが、グリモアルト2世の子テオドアルドは自らが正統な後継者であるとしてプレクトルードの援助のもと[4]宮宰職を要求した。しかし側室アルパイダ(カルパイダ)との間に生まれた庶子のカール・マルテルは、軍事的才能と戦利品を気前よく配ったことによりアウストラシアの支持を得た。結果、プレクトルードとその子らの努力にも拘らず、カール・マルテルがアウストラシア宮宰およびフランク王国の事実上の支配者となった。
脚注
参考文献
- 佐藤彰一 『世界史リブレット人29 カール大帝』 山川出版社、2013年
- 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年
- 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』山川出版社、1997年