「衛氏朝鮮」の版間の差分

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=== 滅亡 ===
3伝して孫の[[衛右渠]]に至る。[[漢]]は、[[衛右渠]]が一度も呼び出しに応じない、周辺諸国を[[規制]]していることを詰問したが<ref>{{Harvnb|武田|1997|pp=267}}</ref>、それでも[[衛右渠]]は漢の意従わず、[[武帝 (漢)|武帝]]は朝鮮を帰服させるために[[紀元前109年]]-[[紀元前108年]]遠征を行う。しかし、実は[[武帝 (漢)|武帝]]が朝鮮に遠征したのは[[匈奴]]を牽制するためともいわれ、前漢が衛氏朝鮮を滅ぼしたとき、これを「匈奴の左[[臂]]を断った」とする評があり<ref>{{Harvnb|武田|1997|pp=265}}</ref>、[[杉山正明]]は、漢の武帝が衛氏朝鮮を征服した理由として、衛氏朝鮮が漢より匈奴の支配下にあり、その傍証として匈奴の「左賢王」「右賢王」用語が5世紀の[[百済]]においてもなお使用されている事実を挙げている<ref>[[伊藤英人]]「朝鮮半島における言語接触」[[東京外国語大学]]語学研究所論集、第18号、p62</ref>。漢が朝鮮へ侵攻してくると、合議メンバーの朝鮮相[[路人]]、朝鮮相[[韓陰]]、尼谿相[[参 (衛氏朝鮮)|参]]、将軍[[王唊]]の4人うち亡命者或いは亡命者ゆかりの人物の[[路人]]、[[韓陰]]、[[王唊]]は[[衛右渠]]を残したまま降伏した<ref>{{Harvnb|武田|1997|pp=268}}</ref>。[[参 (衛氏朝鮮)|参]]だけは抗戦するが、翌年[[衛右渠]]を刺客に殺させ、降伏した。[[衛右渠]]殺害後も大臣らが抗戦していたが、前漢は、すでに降伏していた[[衛右渠]]の子の[[衛長降]]と路人の子の[[最 (衛氏朝鮮)|最]]を差し向け、大臣を殺して降伏させた<ref>{{Harvnb|武田|1997|pp=268}}</ref>。衛氏朝鮮は滅ぼされ、故地には[[楽浪郡]]、[[真番郡]]、[[臨屯郡]]、[[玄菟郡]]の[[漢四郡]]が置かれ漢の領土となった。『[[史記]]』朝鮮伝は、「遂に朝鮮を定め、四郡と為す」と記した<ref>{{Harvnb|武田|1997|pp=268}}</ref>。『[[史記]]』孝武本紀には、「朝鮮を伐つ」とある<ref>{{Harvnb|武田|1997|pp=267}}</ref>。
 
== 韓国・北朝鮮での捉え方 ==

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