「マリア・ルイーザ (パルマ女公)」の版間の差分

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=== 新たな生活 ===
同じ年の[[3月20日]]に、ナポレオンはマリア・ルイーゼに宛てて、帰ってきてくれるよう何通も手紙を書いて送ったが、彼女は一切返事を書こうとはせず「何があってもあの人の許に行くつもりはありません」と言った。[[6月18日]]には[[議会]]でマリア・ルイーゼのパルム統治が決定され、息子のローマ王が同行できない事を知っても、彼女は少しもパルム行きをためらわなかった。彼女の頭の中には、ナイペルク伯との新しい生活の事しかなかったのである。この3ヶ月後にナポレオンが[[ワーテルローの戦い]]に敗れ、[[セントヘレナ|セント・ヘレナ島]]に流されるのを知ると「これで世の中は安泰です。ナポレオンは二度と平和を揺るがす事ができないのですから。後は、人々が善意と寛容な心を持ってあの人に接してくださる事を望むのみです。私があの人の運命について関わるのはこれが最後です」と父のフランツ2世に宛てて手紙を書いて送った。翌[[1816年]][[3月7日]]、マリア・ルイーゼはナイペルク伯と共にパルムに向けて旅立った。<br>
[[6月18日]]には[[議会]]でマリア・ルイーゼのパルム統治が決定され、息子のローマ王が同行できない事を知っても、彼女は少しもパルム行きをためらわなかった。彼女の頭の中には、ナイペルク伯との新しい生活の事しかなかったのである。この3ヶ月後にナポレオンが[[ワーテルローの戦い]]に敗れ、[[セントヘレナ|セント・ヘレナ島]]に流されるのを知ると「これで世の中は安泰です。ナポレオンは二度と平和を揺るがす事ができないのですから。後は、人々が善意と寛容な心を持ってあの人に接してくださる事を望むのみです。私があの人の運命について関わるのはこれが最後です」と父のフランツ2世に宛てて手紙を書いて送った。<br>
翌[[1816年]][[3月7日]]、マリア・ルイーゼはナイペルク伯と共にパルムに向けて旅立った。
 
一方、ローマ王の方は[[監禁]]同然の淋しい生活を送り、母のマリア・ルイーゼとの別れてから初めての面会を楽しみにしていた。しかし、マリア・ルイーゼは[[1817年]][[5月1日]]にナイペルク伯の娘のアルベルティーヌを秘密のうちに出産すると、ローマ王との約束を簡単に破った。母親に約束を破られたローマ王は大変に悲しんだ。マリア・ルイーゼが重い腰を上げ、息子に会いに行ったのは別れてから2年も経った[[1818年]]の[[7月]]の事だった。
 
なおこの頃、[[ブラジル帝国|ブラジル]]皇帝の[[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ペドロ1世]]に嫁いだ、彼女と仲の良かった妹の[[マリア・レオポルディーネ・フォン・エスターライヒ]]は、異常なほどの性欲を持つ不誠実で横暴な夫と愛人に苦しめられて不幸な結婚生活を送っており、姉のマリア・ルイーゼにもその不幸を想像させる苦悩が滲んだ手紙を何通も書き送っていたが、なぜか彼女とフランツ2世はレオポルディーネにほとんど手紙を書かなかった。彼女はナイペルク伯と彼の子供達の事しか関心がなくなっていたらしい。結局、マリア・ルイーゼは最後まで苦境にあるレオポルディーネの気持ちを真に理解する事はなかった。レオポルディーネは、自分の事をハプスブルク家の犠牲者と呼び、自分は間もなく夫の[[暴力]]により死ぬだろうという悲痛な手紙を最後に、ほどなくして29歳で死去している。<br>
結局、マリア・ルイーゼは最後まで苦境にあるレオポルディーネの気持ちを真に理解する事はなかった。レオポルディーネは、自分の事をハプスブルク家の犠牲者と呼び、自分は間もなく夫の[[暴力]]により死ぬだろうという悲痛な手紙を最後に、ほどなくして29歳で死去している。
 
ローマ王と再会した後、パルムに戻ったマリア・ルイーゼは、それから[[1819年]][[8月9日]]にナイペルク伯の二人目の子供のギョームをやはり秘密のうちに出産し、またしてもローマ王に会うためにウィーンに行く事を中止した。
 
[[1821年]][[5月5日]]にナポレオンがセント・ヘレナ島で死去した。<br>
[[1821年]][[5月5日]]にナポレオンがセント・ヘレナ島で死去した。マリア・ルイーゼは「[[セビリアの理髪師]]」を観にオペラ座に行った時に偶然見かけた[[新聞]]でナポレオンの死を知った。ナポレオンは、マリア・ルイーゼに自分の[[心臓]]を保管して欲しいと[[遺言]]していたが、彼女は「私の願いは、あの人の心臓があの人のお墓の中に葬られる事です」と一言のもとに断り、その代わりに[[デスマスク]]を受け取った。しかし、そのデスマスクもしばらくすると彼女の子供達の遊び道具の一つとなった。
 
[[1822年]][[8月15日]]にマリア・ルイーゼはナイペルク伯の四人目の子供になる女児を出産した。[[1825年]]には五人目の子供を[[妊娠中絶|流産]]した。この間、ウィーンにいる息子に彼女が会いに行ったのはたったの一回だった。そして[[9月]]上旬に、フランツ2世の承諾を得て彼女はナイペルク伯と正式に結婚した。この頃、ローマ王はライヒシュタット公になった。
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