「マリア・ルイーザ (パルマ女公)」の版間の差分

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=== ナイペルク伯 ===
=== ナイペルク伯 ===
マリア・ルイーゼはロシア兵が守備するランブイエの城で、ナポレオンへの手紙を書く事も、彼からの手紙を受け取る事もなく、しばらく過ごす事になった。やがてそこで父のフランツ2世と再会した彼女は、オーストリアへと帰国した。フランツ2世はやつれた彼女に、しばらく[[エクス=レ=バン]]にある[[温泉]]でゆっくりと静養し、そこからエルバ島に行けばいいと言った。その言葉に従い、マリア・ルイーゼはウィーンにローマ王を残したまま、保養地のエクス=レ=バンに向った。エクス=レ=バンに向う際に、マリア・ルイーゼにはメッテルニヒによって付けられた護衛兼監視役のナイペルク伯が同行した。メッテルニヒは彼に「エクス=レ=バンにマリア・ルイーゼが滞在中、必要な手段を用い、エルバ島のナポレオンに合流したいという望みを断念させる事。もしいかなる手段を用いてもエルバ島行きを断念せず実行する場合には、同行すべし」と命令していた。この命令を受けたナイペルク伯は「十ヶ月も経たないうちに恋人になり、それから間もなくして夫になってみせるさ」と豪語した。彼は42歳の妻子ある男性で、フランスとの戦いで右目を失い、ナポレオンを憎悪していた。
マリア・ルイーゼはロシア兵が守備するランブイエの城で、ナポレオンへの手紙を書く事も、彼からの手紙を受け取る事もなく、しばらく過ごす事になった。やがてそこで父のフランツ2世と再会した彼女は、オーストリアへと帰国した。フランツ2世はやつれた彼女に、しばらく[[エクス=レ=バン]]にある[[温泉]]でゆっくりと静養し、そこからエルバ島に行けばいいと言った。<br>
その言葉に従い、マリア・ルイーゼはウィーンにローマ王を残したまま、保養地のエクス=レ=バンに向った。エクス=レ=バンに向う際に、マリア・ルイーゼにはメッテルニヒによって付けられた護衛兼監視役のナイペルク伯が同行した。メッテルニヒは彼に「エクス=レ=バンにマリア・ルイーゼが滞在中、必要な手段を用い、エルバ島のナポレオンに合流したいという望みを断念させる事。もしいかなる手段を用いてもエルバ島行きを断念せず実行する場合には、同行すべし」と命令していた。<br>
この命令を受けたナイペルク伯は「十ヶ月も経たないうちに恋人になり、それから間もなくして夫になってみせるさ」と豪語した。彼は42歳の妻子ある男性で、フランスとの戦いで右目を失い、ナポレオンを憎悪していた。


マリア・ルイーゼは、ナポレオンの[[誕生日]]には自分の髪の毛やローマ王の胸像を送り、何通も手紙を書いて送った。一方、ナポレオンの方もマリア・ルイーゼがローマ王を連れてやってくるのを心待ちにしていた。そのため、息子を連れてエルバ島にやってきた愛人の[[マリア・ヴァレフスカ]]でさえ、三日で追い返してしまった。ところがエクス=レ=バンでは、洗練された[[貴族]]であるナイペルク伯が、機知に富んだ会話などでたちまちマリア・ルイーゼの心を捕らえてしまっていた。そして彼女はついにナポレオンの事を忘れ、ある秋の日に散歩の途中で嵐にあって避難したソレイユ・ドールと呼ばれる簡素な宿舎で、ナイペルク伯と男女の関係を持ったという。このため、[[1815年]][[2月26日]]にナポレオンがエルバ島を脱出したとの知らせを聞いてマリア・ルイーゼは仰天した。そして彼女は「再び[[ヨーロッパ]]の[[平和]]が危険にさらされる事になるのです」と言った。
マリア・ルイーゼは、ナポレオンの[[誕生日]]には自分の髪の毛やローマ王の胸像を送り、何通も手紙を書いて送った。一方、ナポレオンの方もマリア・ルイーゼがローマ王を連れてやってくるのを心待ちにしていた。そのため、息子を連れてエルバ島にやってきた愛人の[[マリア・ヴァレフスカ]]でさえ、三日で追い返してしまった。<br>
ところがエクス=レ=バンでは、洗練された[[貴族]]であるナイペルク伯が、機知に富んだ会話などでたちまちマリア・ルイーゼの心を捕らえてしまっていた。そして彼女はついにナポレオンの事を忘れ、ある秋の日に散歩の途中で嵐にあって避難したソレイユ・ドールと呼ばれる簡素な宿舎で、ナイペルク伯と男女の関係を持ったという。このため、[[1815年]][[2月26日]]にナポレオンがエルバ島を脱出したとの知らせを聞いてマリア・ルイーゼは仰天した。そして彼女は「再び[[ヨーロッパ]]の[[平和]]が危険にさらされる事になるのです」と言った。


=== 新たな生活 ===
=== 新たな生活 ===

2006年6月16日 (金) 10:00時点における版

マリア=ルイーゼ・フォン・エスターライヒ(Marie-Louise von Österreich, 1791年12月12日 - 1847年12月17日)は、神聖ローマ皇帝フランツ2世の娘であり、フランス皇帝ナポレオン1世皇后。エスターライヒとはオーストリアのことである。フランス語では、マリー=ルイーズ・ドートリッシュ(Marie-Louise d'Autriche)と呼ばれる。

生涯

望まざる結婚

マリア・ルイーゼはフランツ2世の長女として生まれた。彼女はナポレオンの侵略によってシェーンブルン宮殿を二度に渡って追い出され、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられ、ナポレオンと名を付けた人形をいじめながら育ってきた。彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。そのため、自分とナポレオンが結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時には、自分が哀れで泣き続けたという。

彼女は1810年4月1日ルーヴル宮殿の礼拝堂で皇帝ナポレオンと結婚式を挙げた。しかし、ナポレオンと共に日々を過ごすようになってみると、彼が自分に対してとても優しかったため、彼女は彼に心を許し彼を愛するようになっていった。ナポレオンは彼女をけっして失いたくないと、彼女の機嫌を損ねないように必死だったのである。彼女は後に友人に宛てて「ウィーンでは私が不安の中で暮らしていると思っている事でしょう。でも、事実は違うのです。私は少しもナポレオンを怖いとは思っていません。むしろ、ナポレオンが私を怖がっているのではないかと最近思い始めました」という手紙まで書いている。

マリア・ルイーゼは、ナポレオンの妹達とは打ち解けられず、また社交的でいつも大勢の女官達と談笑していたジョゼフィーヌとは違って、彼女が私室に入れるのは女官長のモンテベロ夫人と衣装係長のリュセイ夫人などごく限られた人達のみで、彼女の部屋はいつも静かだった。彼女はハプスブルク家皇女といってもつつましく育てられたため、おしゃれにも特に関心がなく、服はジョゼフィーヌと比べると少ししか注文しなかったし、宝石にいたってはほとんど注文しなかった。このため、ジョゼフィーヌが皇后だった時代に大儲けをし財をなした商人たちの間では、彼女はすこぶる評判が悪かったという。

嫡子出産

1811年3月20日に、マリア・ルイーゼはローマ王(ナポレオン2世)を出産した。
この時、大変な難産で母子のどちらかしか助けられないかもしれないと医師から聞かされたナポレオンは、ためらわず「母を救え!」と言った。ナポレオンはこの息子の誕生を大喜びし、この子供をとても可愛がった。しかし、マリア・ルイーゼはあまりこの子供に関心を示さなかった。
養育係のモンテスキュ夫人は、ローマ王が目覚めるとすぐにマリア・ルイーゼの部屋に連れて行った。しかし、小さい子供に慣れていないマリア・ルイーゼは、まるで壊れ物に触るように恐る恐る手を触れ、胸に少し抱いただけですぐに子供をモンテスキュ夫人に返してしまった。午後にはマリア・ルイーゼがローマ王の部屋に行くのが習慣だったが、彼女は子供をあやす事もなければ語りかける事もなく、ただ微笑みながら見つめているだけで、女官達が彼女には母性愛が欠けているのではないかと本気で心配するほど、子供の養育を養育係に任せきりにした。そのため、ローマ王が最もなついたのはモンテスキュ夫人で、彼が口がきけるようになって最初に発した言葉は「ママン・キュ」で、夫人を大いに感激させたという。

夫の没落とパリ脱出

しかし、1812年にナポレオンはロシア遠征に失敗し、1813年ライプツィヒの戦いでもナポレオンは大敗する。
1814年にはオーストリアのシュヴァルツェンベルク将軍プロイセンブリュッヒャー将軍・かつてのナポレオンの部下だったスウェーデン王太子のジャン・=バティスト・ジュール・ベルナドット将軍・イギリスウェリントン公による大規模なナポレオン包囲網が築かれつつあり、さらにナポレオンと帝国は苦境に追い込まれていった。

ついにマリア・ルイーゼのいるテュイルリー宮殿では、ロシア・プロイセン・オーストリア・スウェーデン同盟軍のパリ襲撃に備え、彼女とローマ王の処遇を巡り議論が始まった。
サヴォリ警務大臣は、皇后が首都を離れる事は帝国崩壊にも等しく、反乱を避けるためにも彼女とローマ王はパリに留まるべきだと主張し、カンバセレス大法官とタレーランもこの意見に賛同した。しかし陸軍大臣クラルクは、万一の事を考え皇后とローマ王は一刻も早く安全な場所に避難すべきだと主張した。その間、マリア・ルイーゼは一言も発する事なくひたすら議論に耳を傾けていた。議論は堂々巡りを繰り返し、真夜中になっても結論が出ず、ついに投票に持ち込まれた。その結果、マリア・ルイーゼはローマ王と共にパリに留まる事になった。
だがその時、今まで沈黙を保ち、投票も棄権したナポレオンの兄のジョゼフ・ボナパルトが立ち上がり、前もってナポレオンから受け取っていた声明文を読み上げた。その内容は「不幸にも、万が一戦いに敗れるような事が生じた場合、皇后とローマ王を速やかにパリからランブイエに移し、けっして敵の手に渡す事がないように万全を尽くすべし」というものだった。それを聞いたマリア・ルイーゼは、この命令には断固反対した。そして「パリを明け渡す事は、ブルボン王朝復活に絶好の機会を与える事になります。私はこのままパリに留まる事こそ、皇帝不在中摂政を任されたフランス皇后としての務めだと思っています」と主張した。この時マリア・ルイーゼは、父のフランツ2世を通して、ロシア皇帝アレクサンドル1世およびプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世を説得し、ローマ王をナポレオン2世として即位させる可能性を信じていたのである。

しかし、ついに1814年の3月29日の朝、マリア・ルイーゼとローマ王は10台の大型馬車でランブイエに向けて発つ事になった。しかし、ランブイエにも既に危険が迫っている事がわかり、マリア・ルイーゼ一行は、さらに遠いロアール川の方にあるブロワ城に向かってさらに進んだ。城に着いたのは、4月2日の夜中だった。

それから6日後の4月8日に、マリア・ルイーゼは夫がフォンテーヌブロー宮殿で退位した知らせを受け取った。ナポレオンがいるフォンテーヌブロー宮殿が、自分のいるブロワ城からそれほど遠くないとわかった時、彼女は直ちに馬車を用意させ、ナポレオンの許へと向った。しかし、その道中ジャン・ランヌ元帥の未亡人であるモンテベロ夫人は、ナポレオン皇帝が国を失った今となっては、せめてマリア・ルイーゼとローマ王の今後だけでもフランツ皇帝に嘆願して保証してもらうようにと、執拗に助言し続けた。モンテベロ夫人は、エルバ島行きなどまっぴらごめんだと思っていた。宮廷の心地よい生活を知った彼女は、地位を失ったナポレオンへの忠誠などさっさと捨て、ブルボン側に付いて甘い汁を吸う事しか考えていなかった。オルレアンに着くと、マリア・ルイーゼはナポレオンに宛てて「今すぐにはあなたの所に行かない事にしました。まず父に会おうと思うのです。エルバ島でのあなたの待遇改善と、私達の息子のためにトスカーナ地方を要求するためです。もし、今あなたが父に会いに行く事を許してくださるのなら、きっとトスカーナを手にいれる事ができると思うのです。善良な父は私の涙に感動し、きっとあなたの運命も変わる事でしょう」と手紙を書いた。
しかし、当然フランツ2世は娘の訴えなど聞く気はなかった。彼もメッテルニヒも、マリア・ルイーゼをあくまで一時的にナポレオンの許に嫁がせたに過ぎなかった。そしてトスカーナ地方は元の統治者である、マリア・ルイーゼの祖父の神聖ローマ帝国皇帝レオポルト2世の次男フェルディナンド大公に返還し、マリア・ルイーゼのためにはパルムの統治権をと考えていたのである。
その後4月12日に、モンテベロ夫人の意を受けたと思われるフランツ2世の使者を名乗る人物が、突然マリア・ルイーゼの所にやってきて、半ば強制的に彼女とローマ王を連れて行ってしまった。この夜、全てに絶望したナポレオンはフォンテーヌブロー宮殿で毒をあおった。

ナイペルク伯

マリア・ルイーゼはロシア兵が守備するランブイエの城で、ナポレオンへの手紙を書く事も、彼からの手紙を受け取る事もなく、しばらく過ごす事になった。やがてそこで父のフランツ2世と再会した彼女は、オーストリアへと帰国した。フランツ2世はやつれた彼女に、「しばらくエクス=レ=バンにある温泉でゆっくりと静養し、そこからエルバ島に行けばいい」と言った。
その言葉に従い、マリア・ルイーゼはウィーンにローマ王を残したまま、保養地のエクス=レ=バンに向った。エクス=レ=バンに向う際に、マリア・ルイーゼにはメッテルニヒによって付けられた護衛兼監視役のナイペルク伯が同行した。メッテルニヒは彼に「エクス=レ=バンにマリア・ルイーゼが滞在中、必要な手段を用い、エルバ島のナポレオンに合流したいという望みを断念させる事。もしいかなる手段を用いてもエルバ島行きを断念せず実行する場合には、同行すべし」と命令していた。
この命令を受けたナイペルク伯は「十ヶ月も経たないうちに恋人になり、それから間もなくして夫になってみせるさ」と豪語した。彼は42歳の妻子ある男性で、フランスとの戦いで右目を失い、ナポレオンを憎悪していた。

マリア・ルイーゼは、ナポレオンの誕生日には自分の髪の毛やローマ王の胸像を送り、何通も手紙を書いて送った。一方、ナポレオンの方もマリア・ルイーゼがローマ王を連れてやってくるのを心待ちにしていた。そのため、息子を連れてエルバ島にやってきた愛人のマリア・ヴァレフスカでさえ、三日で追い返してしまった。
ところがエクス=レ=バンでは、洗練された貴族であるナイペルク伯が、機知に富んだ会話などでたちまちマリア・ルイーゼの心を捕らえてしまっていた。そして彼女はついにナポレオンの事を忘れ、ある秋の日に散歩の途中で嵐にあって避難したソレイユ・ドールと呼ばれる簡素な宿舎で、ナイペルク伯と男女の関係を持ったという。このため、1815年2月26日にナポレオンがエルバ島を脱出したとの知らせを聞いてマリア・ルイーゼは仰天した。そして彼女は「再びヨーロッパ平和が危険にさらされる事になるのです」と言った。

新たな生活

同じ年の3月20日に、ナポレオンはマリア・ルイーゼに宛てて、帰ってきてくれるよう何通も手紙を書いて送ったが、彼女は一切返事を書こうとはせず「何があってもあの人の許に行くつもりはありません」と言った。6月18日には議会でマリア・ルイーゼのパルム統治が決定され、息子のローマ王が同行できない事を知っても、彼女は少しもパルム行きをためらわなかった。彼女の頭の中には、ナイペルク伯との新しい生活の事しかなかったのである。この3ヶ月後にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、セント・ヘレナ島に流されるのを知ると「これで世の中は安泰です。ナポレオンは二度と平和を揺るがす事ができないのですから。後は、人々が善意と寛容な心を持ってあの人に接してくださる事を望むのみです。私があの人の運命について関わるのはこれが最後です」と父のフランツ2世に宛てて手紙を書いて送った。翌1816年3月7日、マリア・ルイーゼはナイペルク伯と共にパルムに向けて旅立った。

一方、ローマ王の方は監禁同然の淋しい生活を送り、母のマリア・ルイーゼとの別れてから初めての面会を楽しみにしていた。しかし、マリア・ルイーゼは1817年5月1日にナイペルク伯の娘のアルベルティーヌを秘密のうちに出産すると、ローマ王との約束を簡単に破った。母親に約束を破られたローマ王は大変に悲しんだ。マリア・ルイーゼが重い腰を上げ、息子に会いに行ったのは別れてから2年も経った1818年7月の事だった。

なおこの頃、ブラジル皇帝のペドロ1世に嫁いだ、彼女と仲の良かった妹のマリア・レオポルディーネ・フォン・エスターライヒは、異常なほどの性欲を持つ不誠実で横暴な夫と愛人に苦しめられて不幸な結婚生活を送っており、姉のマリア・ルイーゼにもその不幸を想像させる苦悩が滲んだ手紙を何通も書き送っていたが、なぜか彼女とフランツ2世はレオポルディーネにほとんど手紙を書かなかった。彼女はナイペルク伯と彼の子供達の事しか関心がなくなっていたらしい。結局、マリア・ルイーゼは最後まで苦境にあるレオポルディーネの気持ちを真に理解する事はなかった。レオポルディーネは、自分の事をハプスブルク家の犠牲者と呼び、自分は間もなく夫の暴力により死ぬだろうという悲痛な手紙を最後に、ほどなくして29歳で死去している。

ローマ王と再会した後、パルムに戻ったマリア・ルイーゼは、それから1819年8月9日にナイペルク伯の二人目の子供のギョームをやはり秘密のうちに出産し、またしてもローマ王に会うためにウィーンに行く事を中止した。

1821年5月5日にナポレオンがセント・ヘレナ島で死去した。マリア・ルイーゼは「セビリアの理髪師」を観にオペラ座に行った時に偶然見かけた新聞でナポレオンの死を知った。ナポレオンは、マリア・ルイーゼに自分の心臓を保管して欲しいと遺言していたが、彼女は「私の願いは、あの人の心臓があの人のお墓の中に葬られる事です」と一言のもとに断り、その代わりにデスマスクを受け取った。しかし、そのデスマスクもしばらくすると彼女の子供達の遊び道具の一つとなった。

1822年8月15日にマリア・ルイーゼはナイペルク伯の四人目の子供になる女児を出産した。1825年には五人目の子供を流産した。この間、ウィーンにいる息子に彼女が会いに行ったのはたったの一回だった。そして9月上旬に、フランツ2世の承諾を得て彼女はナイペルク伯と正式に結婚した。この頃、ローマ王はライヒシュタット公になった。

その後

1829年2月22日にナイペルク伯が死去した。彼の遺言には、フランツ2世にもライヒシュタット公にも秘密にしていたアルベルティーヌとギョームの事が明記されていて、マリア・ルイーゼは蒼白になった。この子供達はナポレオンが生存中に生まれた子であり、マリア・ルイーゼと別居を強いられ、毎日のように訪れる彼女を母と呼ぶ事が許されず、マダムと他人のように呼ぶ事が義務付けられていた。この事を知ったフランツ2世は愕然としたが「の前に犯してはならぬを犯し悲しんでいるが、私はお前の父だ。親としての愛を持って許すとしよう」と娘に言った。

1832年7月22日に、ライヒシュタット公は死去した。翌日、マリア・ルイーゼはナポレオンの母のレティツィア・ボナパルトに息子の死を手紙で知らせた。

ナイペルク伯亡き後のマリア・ルイーゼのパルム統治の補佐役として、ヴェルクライン、次にはマルシャルが来たが、不人気であったりパルムに馴染まなかったりという理由で相次いで解任されていた。その後に、7月革命までシャルル10世に仕え、フランスに住んでいたシャルル・ルネ・ド・ボンベルが来た。彼は穏やかな人物で、マリア・ルイーゼと彼はお互いに好意を持ち、1834年2月17日に結婚した。

1847年12月17日に、マリア・ルイーゼは死去した。

関連項目