「吉田長利」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[黒田孝高]]の1歳年下である。孝高の母が乳の出が悪かったため、長利の母が授乳しており、孝高とは乳兄弟に当たる。[[永禄]]6年([[1563年]])[[黒田職隆]]に出仕。永禄7年([[1564年]])、父・[[八代道慶]]は[[浦上清宗]]の婚礼に同席した際、[[赤松政秀]]の襲撃を受けて負傷し、それが元で後に没した。永禄9年([[1566年]])、孝高の勧めにより、家老・[[吉田重生]]の姓を譲られて吉田姓となる。
 
その後、[[青山・土器山の戦い]]、[[別所氏]]による[[置塩城]]攻め、印南野合戦、[[備中高松城の戦い]]、財部城攻めなど様々な合戦に従軍して戦功を挙げる。この間の[[天正]]8年([[1580年]])には、長男の与次が[[三木合戦]]で19歳で討死している。天正16年([[1588年]])の[[城井鎮房]]暗殺時には、城門の警備に当たり、鎮房の家老・塩田内記や家臣50人を銃撃して城内に入るのを防いだ。孝高が豊前を平定すると、長利は1,282石を与えられた。
[[文禄・慶長の役]]には、子・[[吉田重成|重成]]と共に従軍。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]後の富来城攻めで兜と歯茎に銃弾を受けるが、これが生涯で唯一の負傷であったという。慶長7年([[1602年]])、[[筑前国]]内に1,200石を与えられる。慶長9年([[1604年]])に孝高が死去した後、[[福岡城]]南の丸の城代を務め、[[黒田長政]]から「壱岐守」を与えられた。隠居後、水庵(翠庵)と号した。
 
元和9年(1623年)9月22日死去。享年77。
 
== 参考文献 ==

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