「ゾンダーブルク家」の版間の差分
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##[[アウグステンブルク家|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク家]](Schleswig-Holstein-Sonderburg-Augustenburg)は、エルンスト・ギュンター{{enlink|Ernst Gunther, Duke of Schleswig-Holstein-Sonderburg-Augustenburg|a=on}}を始祖とし、アウグステンボー城{{enlink|Schloss Augustenburg (Dänemark)||de|a=on}}を居所とした。この家系は1931年に絶えたが、一族からドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の皇后[[アウグステ・ヴィクトリア・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク|アウグステ・ヴィクトリア]]が出ている。 |
##[[アウグステンブルク家|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク家]](Schleswig-Holstein-Sonderburg-Augustenburg)は、エルンスト・ギュンター{{enlink|Ernst Gunther, Duke of Schleswig-Holstein-Sonderburg-Augustenburg|a=on}}を始祖とし、アウグステンボー城{{enlink|Schloss Augustenburg (Dänemark)||de|a=on}}を居所とした。この家系は1931年に絶えたが、一族からドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の皇后[[アウグステ・ヴィクトリア・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク|アウグステ・ヴィクトリア]]が出ている。 |
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##シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ベック家([[:de:Schleswig-Holstein-Sonderburg-Beck|Schleswig-Holstein-Sonderburg-Beck]])は、アウグスト・フィリップ{{enlink|August Philipp, Duke of Schleswig-Holstein-Sonderburg-Beck|a=on}}を始祖とする。以下の分家がある。 |
##シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ベック家([[:de:Schleswig-Holstein-Sonderburg-Beck|Schleswig-Holstein-Sonderburg-Beck]])は、アウグスト・フィリップ{{enlink|August Philipp, Duke of Schleswig-Holstein-Sonderburg-Beck|a=on}}を始祖とする。以下の分家がある。 |
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###[[グリュックスブルク家|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家]](Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg)。この家系は現在、グリュックスブルク家(グリュクスボー家)として知られている。同家の始祖は[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]である。この家系の傍系は現在、[[デンマーク]]と[[ノルウェー]]の王家となっている。またイギリス女王[[ |
###[[グリュックスブルク家|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家]](Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg)。この家系は現在、グリュックスブルク家(グリュクスボー家)として知られている。同家の始祖は[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]である。この家系の傍系は現在、[[デンマーク]]と[[ノルウェー]]の王家となっている。また[[イギリス]]女王[[エリザベス2世]]の夫君エディンバラ公爵[[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ]]も同家の出身である。 |
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#別系統のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg)も存在する。こちらは[[フィリップ (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公)|フィリップ]]を始祖とし、グリュックスブルク([[:en:Glücksburg|Glücksburg]])のグリュックスブルク城{{enlink|Glücksburg Castle|a=on}}を居城とした。1779年に断絶している。 |
#別系統のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg)も存在する。こちらは[[フィリップ (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公)|フィリップ]]を始祖とし、グリュックスブルク([[:en:Glücksburg|Glücksburg]])のグリュックスブルク城{{enlink|Glücksburg Castle|a=on}}を居城とした。1779年に断絶している。 |
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#シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=エーレ家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Ærø)は[[クリスティアン (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=エーレ公)|クリスティアン]]を始祖とし、エーロスコービン([[:en:Ærøskøbing|Ærøskøbing]])を居所とした。クリスティアンが1633年に死ぬと後継ぎが無かったために断絶し、親族がその遺領を分割相続した。 |
#シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=エーレ家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Ærø)は[[クリスティアン (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=エーレ公)|クリスティアン]]を始祖とし、エーロスコービン([[:en:Ærøskøbing|Ærøskøbing]])を居所とした。クリスティアンが1633年に死ぬと後継ぎが無かったために断絶し、親族がその遺領を分割相続した。 |
2016年11月14日 (月) 11:38時点における版
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク家(ドイツ語:Haus Schleswig-Holstein-Sonderburg)またはセナーボー家(デンマーク語:Huset Sønderborg)は、オルデンブルク家(オレンボー家)の傍系で、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公爵領の統治者の家系。もっとも、ゾンダーブルク公爵領は独立的な領邦国家などではなく、シュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国の内部に非公式に設けられた分領に過ぎない。ゾンダーブルク公爵領は現在のドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の南東部と北部のいくつかの地域に分散しており、そのうちの一部は現在のデンマークにある。公爵領は分割相続を繰り返すうちに数多くの小規模な領地を喪失し、それらの領地はデンマーク王国領に吸収された。
ゾンダーブルク家はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ家と同様、デンマーク王家であるオルデンブルク家の親王家であった。同家は16世紀のデンマーク王クリスチャン3世の3男でフレデリク2世の弟のハンスに始まる分家である。若公(den yngre)と呼ばれたハンスは、兄王からそれぞれ離れた地域にあるセナーボー(ゾンダーブルク)、ノーボー(Nordborg)、エーロ島(Ærø)、プレーン(Plön)およびアーレンスベック(Ahrensbök)の領地を割り当てられた。ハンスはシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国の共同主権者ではなく、「主権の分有者」(Abgeteilte Herren)とされた。
分裂
ハンスが1622年に死ぬと、公爵領は多くの息子たちの間で分割相続され、ゾンダーブルク家はいくつかの分家に分かれた。個々の分家の家名は、各家の公爵の居所に因むものになった。ハンスの息子の一人アレクサンダーはシュレースヴィヒ=ホルシュタインの領域外の領地を相続したり購入したりした。
新しく創設された複数の分家はそれぞれ数平方km規模の領地しかなく、その分家の人々の公爵としての称号も名ばかりで、領主としての実体はなかった。新しい分家が長続きせず、相続人の不在や破産によって断絶した場合は、別の分家やデンマーク王家がその領地を相続した。
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク家(Schleswig-Holstein-Sonderburg)の家名はアレクサンダーが継ぎ、一族はゾンダーブルク城 (en) を居所とした。1667年に破産したため、ゾンダーブルク公爵家の領地はデンマーク王の手に渡った。同家の血統は以下の傍系に受け継がれている。
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=フランツハーゲン家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Franzhagen)。シューレンドルフ(Schulendorf)郊外のフランツハーゲン城(Schloss Franzhagen)を居所とし、ハンス・クリスティアンを始祖とする。
- いわゆる「カトリック系」ゾンダーブルク家(katholische Linie)。アレクサンダー・ハインリヒを始祖とする。
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ヴィーゼンブルク家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Wiesenburg)は、ザクセン地方のヴィーセンブルク城を居所とし、フィリップ・ルートヴィヒを始祖とする。
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Augustenburg)は、エルンスト・ギュンター (en) を始祖とし、アウグステンボー城 (de) を居所とした。この家系は1931年に絶えたが、一族からドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の皇后アウグステ・ヴィクトリアが出ている。
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ベック家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Beck)は、アウグスト・フィリップ (en) を始祖とする。以下の分家がある。
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg)。この家系は現在、グリュックスブルク家(グリュクスボー家)として知られている。同家の始祖はフリードリヒ・ヴィルヘルムである。この家系の傍系は現在、デンマークとノルウェーの王家となっている。またイギリス女王エリザベス2世の夫君エディンバラ公爵フィリップも同家の出身である。
- 別系統のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg)も存在する。こちらはフィリップを始祖とし、グリュックスブルク(Glücksburg)のグリュックスブルク城 (en) を居城とした。1779年に断絶している。
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=エーレ家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Ærø)はクリスティアンを始祖とし、エーロスコービン(Ærøskøbing)を居所とした。クリスティアンが1633年に死ぬと後継ぎが無かったために断絶し、親族がその遺領を分割相続した。
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=プレーン家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Plön)は、ヨアヒム・エルンストを始祖とし、プレーン(Plön)のプレーン城 (en) を居所とした。同家は1761年に断絶した。以下の傍系があった。
- シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=プレーン=レトヴィッシュ家(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Plön-Rethwisch)は、ヨアヒム・エルンスト2世を始祖とし、レトヴィッシュ(Rethwisch)を居所とした。
- 新シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ノルブルク家(Die jüngere Linie Schleswig-Holstein-Sonderburg-Norburg)は、アウグスト (de) を始祖とし、1706年にヨアヒム・フリードリヒ (de) の下でプレーン公爵領を併合した。
- 古シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ノルブルク家(Die ältere Linie Schleswig-Holstein-Sonderburg-Norburg)は、ヨハン・アドルフ (de) を始祖とし、アルス島のノルブルク(ノーボー)城 (de) を居所とした。1669年に破産し、ノルブルク公爵領は1679年にプレーン公爵領に併合された。
系図
ノルブルク公、グリュックスブルク公、プレーン公、レトヴィッシュ公
クリスチャン3世 デンマーク王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フレゼリク2世 デンマーク王 | エリーザベト (ブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン公エルンスト3世娘) | ハンス ゾンダーブルク公 | アグネス (アンハルト侯ヨアヒム・エルンスト娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オルデンブルク朝 | クリスティアン エーレ公 | アレクサンダー ゾンダーブルク公 | ヨハン・アドルフ ノルブルク公 | フリードリヒ ノルブルク公 | フィリップ グリュックスブルク公 | ヨアヒム・エルンスト プレーン公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゾンダーブルク家 (下図) | ヨハン・ボギスラフ | ルドルフ・フリードリヒ | クリスティアン | ヨハン・アドルフ プレーン公 | アウグスト ノルブルク公 | ヨアヒム・エルンスト2世 レトヴィッシュ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エルンスト・レオポルト | フィリップ・エルンスト | アドルフ・アウグスト | ヨアヒム・フリードリヒ ノルブルク公 プレーン公 | クリスティアン・カール | ヨハン・エルンスト・フリードリヒ レトヴィッシュ公 プレーン公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ | レオポルト・アウグスト | フリードリヒ・カール ノルブルク公 プレーン公 レトヴィッシュ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ・ハインリヒ・ヴィルヘルム | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゾンダーブルク家
アレクサンダー ゾンダーブルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨハン・クリスティアン フランツハーゲン公 | アレクサンダー・ハインリヒ ゾンダーブルク公 | エルンスト・ギュンター アウグステンブルク公 | アウグスト・フィリップ ベック公 | マリア・シビル (ナッサウ=ザールブリュッケン伯ヴィルヘルム・ルートヴィヒ娘) | フィリップ・ルートヴィヒ ヴィセンブルク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クリスティアン・アドルフ1世 | アウグステンブルク家 | アウグスト | フリードリヒ・ルートヴィヒ | ルイーズ・シャルロット (アウグステンブルク公エルンスト・ギュンター娘) | フリードリヒ | ヴィルヘルム・クリスティアン | エレオノーレ =リヒテンシュタイン侯マクシミリアン2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
レオポルト・クリスティアン | ルートヴィヒ・カール | フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 | フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 | カール・ルートヴィヒ | ペーター・アウグスト | レオポルト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クリスティアン・アドルフ | フリードリヒ | ゾフィー =オルデンブルク公ゲオルク | アントン・アウグスト | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ・ルートヴィヒ ベック公 プレーン・ノルブルク・グリュックスブルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ・ヴィルヘルム ベック公 グリュックスブルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
グリュックスブルク家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||