「エンゲルベルト・ドルフース」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
編集の要約なし
(英語版05:43, 16 September 2016‎の翻訳。)
|サイトタイトル =
|国旗 = AUT
|職名 = 第14代[[連邦首相 (オーストリア)|連邦首相]]
|内閣 = ドルフース内閣
|就任日 = [[1932年]][[5月20日]]
|退任日 = [[1934年]][[7月25日]]
|元首職 = [[連邦大統領 (オーストリア)|大統領]]
|元首 = [[ヴィルヘルム・ミクラス]]
|国旗2 = AUT
|職名2 = 外務大臣
|内閣2 = ドルフース内閣
|就任日2 = 1932年5月20日
|退任日2 = 1934年[[7月10日]]
|元首職2 = 大統領
|元首2 = ヴィルヘルム・ミクラス
}}
'''エンゲルベルト・ドルフース'''({{lang|de|Engelbert Dollfuß}}、[[1892年]][[10月4日]] - [[1934年]][[7月25日]])は、[[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア第一共和国]]の政治家。
=== 政治活動の開始 ===
[[File:GabineteBuresch1932.jpeg|thumb|240px|ブレシュ内閣(後列左端がドルフース)]]
1922年に法学博士号を取得する。卒業後は農務省で働き、農民協会の総裁を務めた。1927年には[[ニーダーエスターライヒ州]]の農業議会議長となる。ドルフースは{{仮リンク|キリスト教社会党|de|Christlichsoziale Partei (Österreich)}}の指導者{{仮リンク|カール・フォン・フォーゲルザング|de|Karl von Vogelsang}}に心酔して入党し、農業組合設立や失業した農民のための給付金創設のため活動した。1930年9月30日に党員の{{仮リンク|カール・ファウゴイン|de|Carl Vaugoin}}が[[連邦首相 (オーストリア)|連邦首相]]に就任すると[[オーストリア連邦鉄道]]の総裁に任命されたが、ファウゴン内閣は12月の議会選挙で[[オーストリア社会民主党]]が議席を伸ばした責任を取り総辞職した。
 
1931年3月に{{仮リンク|オットー・エンダー|de|Otto Ender}}内閣に農林大臣として入閣する。6月にエンダー内閣は総辞職するが、ドルフースは後継の{{仮リンク|カール・ブレシュ|de|Karl Buresch}}内閣でも農相に留任した。この頃、国内ではドイツの[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の影響を受けた[[ファシズム]]が勢力を拡大しており、議会では社民党との対立も抱えて政情不安な状態であり、ブレシュ内閣は1932年5月20日に総辞職した。総辞職に先立つ5月10日、大統領[[ヴィルヘルム・ミクラス]]から首相任命の内示を受け、5月20日にブレシュ内閣に代わりキリスト教社会党・[[護国団]]・農業党連立政権を発足させた。
 
[[File:EngelbertDolfussTIME1101330925 400.jpg|thumb|200px|[[タイム (雑誌)|タイム誌]]の表紙に掲載されたドルフース(1933年)]]
1933年9月、ドルフースは政権を支援するための傘下グループ{{仮リンク|祖国戦線 (オーストリア)|de|Vaterländische Front|label=祖国戦線}}を組織し、キリスト教社会党と[[護国団]]を統合した。10月には国家社会主義思想を理由に軍を追放されたルドルフ・デルティルがドルフースの暗殺を試みるが、失敗している。翌1934年2月12日、ドルフースは{{仮リンク|共和国防衛同盟 (オーストリア)|de|Republikanischer Schutzbund|label=共和国防衛同盟}}から武器を受け取っていたという理由で社民党員の摘発を始め、これに反発した社民党はドルフース政権に対して蜂起した。蜂起はウィーンや[[リンツ]]を始めとして[[グラーツ]]、{{仮リンク|[[ブルック・アン・デア・ム|en|Bruck an der Mur}}]]、[[ユーデンブルク]]、[[ウィーナー・ノイシュタット]]、[[シュタイアー]]の他に東部・北部・中央部の各都市で起きたが、2月16日には全て警察や護国団により鎮圧された。蜂起の鎮圧後、社民党は活動を禁止され、幹部の大半は逮捕もしくは国外に脱出した([[2月内乱]])<ref>''[https://books.google.com/books?id=IaaJAAAAMAAJ&q=Sozialdemokratische+Partei+verboten+1934&dq=Sozialdemokratische+Partei+verboten+1934&lr=&cd=4 Protokolle des Ministerrates der Ersten Republik, Volume 8, Part 6]''. ISBN 3-7046-0004-0. Google Book Search. Retrieved on February 6, 2010.</ref>。
 
1934年4月30日、ドルフースは新憲法を公布し、5月1日に施行された。「職業共同体」と呼ばれる7つの職能代表からなる各評議会組織が議会に代わって組織され、それは政府に対する補助機関と位置づけられた(一種の[[コーポラティズム]])<ref>Stanley G. Payne, ''Civil War in Europe, 1905-1949'', 2011, p. 108.</ref>。これによって政府は事実上立法・行政の二権を掌握して、イタリアのファシズムや[[ポルトガル]]の[[エスタド・ノヴォ]]を参考にしつつも、カトリックと中世ドイツ的な伝統に支えられた新しい国家体制を打ち立てた。国名も{{仮リンク|オーストリア連邦国|de|Ständestaat (Österreich)}}と改称された。
 
== 参考文献 ==
{{commonscat|Engelbert Dollfuß}}
* Bauman, Vladimír & Hladký, Miroslav ''První zemřel kancléř'', Praha, 1968
* Brožek, Otakar & Horský, Jiří, ''Na dně byla smrt'', Praha, 1968
* {{ÖBL|1|192||Dollfuß Engelbert|}}
 
{{s-start box}}
{{commonscat|Engelbert Dollfuß}}
 
{{start box}}
{{s-off}}
{{s-bef|rows=2| before = {{仮リンク|カール・ブレシュ|de|Karl Buresch}}}}
{{Succession box
{{s-ttl| title = [[File:Flag of Austria.svg|25px]] [[連邦首相 (オーストリア)|オーストリア連邦首相]]|years=第14代:1932年 - 1934年}}
{{s-aft| after = [[クルト・シュシュニック]]}}
| years = 第14代:1932年 - 1934年
|-
| before = {{仮リンク|カール・ブレシュ|de|Karl Buresch}}
{{s-ttl|title=[[File:Flag of Austria.svg|25px]] オーストリア外務大臣|years=1932年 - 1934年}}
| after = [[クルト・シュシュニック]]
{{s-aft|after={{仮リンク|シュテファン・タウシッツ|de|Stephan Tauschitz}}}}
}}
{{end box}}
 
{{DEFAULTSORT:とるふす えんけるへると}}

案内メニュー