「渋川義長」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m 誤字修正
5行目: 5行目:
室町幕府九州探題・渋川尹繁の子として誕生。[[永正]]元年([[1504年]])、父・尹繁より[[肥前国|肥前]]守護職と九州探題職を譲り受けたとされる。
室町幕府九州探題・渋川尹繁の子として誕生。[[永正]]元年([[1504年]])、父・尹繁より[[肥前国|肥前]]守護職と九州探題職を譲り受けたとされる。


父と同じく、室町幕府10代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義稙]]より[[偏諱]]を受けて、初めは'''稙直'''(たねなお)、のちに[[足利将軍家]]の[[通字]](「義」の一字)を下賜され'''義長'''と名乗る<ref>義が「稙直」と名乗ったのは永正10年([[1513年]])から同18年([[1520年]])の間とみられる(『承天寺文書』によれば同14年の段階で「稙直」を名乗っていた[http://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/kankou01sub03.html])。</ref>。
父と同じく、室町幕府10代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義稙]]より[[偏諱]]を受けて、初めは'''稙直'''(たねなお)、のちに[[足利将軍家]]の[[通字]](「義」の一字)を下賜され'''義長'''と名乗る<ref>義が「稙直」と名乗ったのは永正10年([[1513年]])から同18年([[1520年]])の間とみられる(『承天寺文書』によれば同14年の段階で「稙直」を名乗っていた[http://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/kankou01sub03.html])。</ref>。


天文2年([[1533年]])、長年の庇護者であった[[大内氏]]([[大内義隆]])を裏切り、逆に長年の宿敵であった[[少弐氏]]([[少弐資元]])に通じたため、大内軍の攻撃に晒された。
天文2年([[1533年]])、長年の庇護者であった[[大内氏]]([[大内義隆]])を裏切り、逆に長年の宿敵であった[[少弐氏]]([[少弐資元]])に通じたため、大内軍の攻撃に晒された。

2016年10月7日 (金) 07:28時点における版

渋川 義長(しぶかわ よしなが、生年不明 - 天文3年(1534年))は、戦国時代前期の武将室町幕府九州探題本姓源氏足利氏の一門・渋川氏の出身。渋川尹繁の子。一族に渋川尭顕がいるとされ、その続柄は諸説ある。

生涯

室町幕府九州探題・渋川尹繁の子として誕生。永正元年(1504年)、父・尹繁より肥前守護職と九州探題職を譲り受けたとされる。

父と同じく、室町幕府10代将軍足利義稙より偏諱を受けて、初めは稙直(たねなお)、のちに足利将軍家通字(「義」の一字)を下賜され義長と名乗る[1]

天文2年(1533年)、長年の庇護者であった大内氏大内義隆)を裏切り、逆に長年の宿敵であった少弐氏少弐資元)に通じたため、大内軍の攻撃に晒された。

天文3年(1534年)、大内軍によって朝日山城を落とされ自害した。義長の死によって、肥前における渋川氏は滅亡し、同じく九州探題も途絶することとなった。

脚注

  1. ^ 義長が「稙直」と名乗ったのは永正10年(1513年)から同18年(1520年)の間とみられる(『承天寺文書』によれば同14年の段階で「稙直」を名乗っていた[1])。

関連項目