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{{基礎情報 武士
[[Image:Yoshida Nagatoshi.jpg|200px|thumb|吉田長利像([[福岡市博物館]]蔵)]]
| 氏名 = 吉田長利
'''吉田 長利'''(よしだ ながとし、[[天文 (元号)|天文]]16年([[1547年]]) - [[元和 (日本)|元和]]9年[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]([[1623年]][[11月14日]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]の武将、[[福岡藩]]士。[[黒田二十四騎]]の一人。幼名は長坊、与太郎。初名は六之助、通称は'''六郎太夫'''(ろくろうだゆう)、号は水庵(翠庵)。父は[[八代道慶]]。母は隅田氏。妻は三木善界の娘。子に与次、[[吉田重成|重成]]、[[野村祐勝]]後室がいる。
| 画像 = Yoshida Nagatoshi.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 吉田長利像([[福岡市博物館]]蔵)
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[江戸時代]]前期
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]16年([[1547年]])
| 死没 = [[元和 (日本)|元和]]9年[[9月22日 (旧暦)|9月22日]]([[1623年]][[11月14日]])
| 改名 = 長坊/与太郎(幼名)→六之助(初名)→長利→水庵/翠庵(号)
| 別名 = 通称:六郎太夫
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[壱岐国|壱岐]][[国司|守]]
| 幕府 =
| 主君 = [[黒田職隆]]→[[黒田孝高|孝高]]
| 藩 = [[筑前国|筑前]][[福岡藩]]士
| 氏族 = [[八代氏]]→[[吉田氏 (播磨国)|吉田氏]]
| 父母 = 父:[[八代道慶]]、母:[[隅田氏]]娘
| 兄弟 =
| 妻 = [[三木善界]]娘
| 子 = 与次、[[吉田重成|重成]]、[[野村祐勝]]後室
| 特記事項 =
}}


'''吉田 長利'''(よしだ ながとし)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]・[[福岡藩]]士。[[黒田二十四騎]]の一人。
[[黒田孝高]]の1歳年下である。孝高の母が乳の出が悪かったため、長利の母が授乳しており、孝高とは乳兄弟に当たる。永禄6年([[1563年]])[[黒田職隆]]に出仕。永禄7年([[1564年]])、父・道慶は[[浦上清宗]]の婚礼に同席した際、[[赤松政秀]]の襲撃を受けて負傷し、それが元で後に没した。永禄9年([[1566年]])、孝高の勧めにより、家老・[[吉田重生]]の姓を譲られて吉田姓となる。

== 略歴 ==
[[黒田孝高]]の1歳年下である。孝高の母が乳の出が悪かったため、長利の母が授乳しており、孝高とは乳兄弟に当たる。[[永禄]]6年([[1563年]])[[黒田職隆]]に出仕。永禄7年([[1564年]])、父・[[八代道慶]]は[[浦上清宗]]の婚礼に同席した際、[[赤松政秀]]の襲撃を受けて負傷し、それが元で後に没した。永禄9年([[1566年]])、孝高の勧めにより、家老・[[吉田重生]]の姓を譲られて吉田姓となる。


その後、[[青山・土器山の戦い]]、[[別所氏]]による[[置塩城]]攻め、印南野合戦、[[備中高松城の戦い]]、財部城攻めなど様々な合戦に従軍して戦功を挙げる。この間の[[天正]]8年([[1580年]])には、長男の与次が[[三木合戦]]で19歳で討死している。天正16年([[1588年]])の[[城井鎮房]]暗殺時には、城門の警備に当たり、鎮房の家老・塩田内記や家臣50人を銃撃して城内に入るのを防いだ。孝高が豊前を平定すると、長利は1,282石を与えられた。
その後、[[青山・土器山の戦い]]、[[別所氏]]による[[置塩城]]攻め、印南野合戦、[[備中高松城の戦い]]、財部城攻めなど様々な合戦に従軍して戦功を挙げる。この間の[[天正]]8年([[1580年]])には、長男の与次が[[三木合戦]]で19歳で討死している。天正16年([[1588年]])の[[城井鎮房]]暗殺時には、城門の警備に当たり、鎮房の家老・塩田内記や家臣50人を銃撃して城内に入るのを防いだ。孝高が豊前を平定すると、長利は1,282石を与えられた。


[[文禄・慶長の役]]には、子重成と共に従軍。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]後の富来城攻めで兜と歯茎に銃弾を受けるが、これが生涯で唯一の負傷であったという。慶長7年([[1602年]])、[[筑前国]]内に1,200石を与えられる。慶長9年([[1604年]])に孝高が死去した後、[[福岡城]]南の丸の城代を務め、[[黒田長政]]から「壱岐守」の称号を与えられた。隠居後、水庵(翠庵)と号した。
[[文禄・慶長の役]]には、子・[[吉田重成|重成]]と共に従軍。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]後の富来城攻めで兜と歯茎に銃弾を受けるが、これが生涯で唯一の負傷であったという。慶長7年([[1602年]])、[[筑前国]]内に1,200石を与えられる。慶長9年([[1604年]])に孝高が死去した後、[[福岡城]]南の丸の城代を務め、[[黒田長政]]から「壱岐守」を与えられた。隠居後、水庵(翠庵)と号した。


元和9年(1623年)9月22日死去。享年77。
元和9年(1623年)9月22日死去。享年77。
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*[[本山一城]]『黒田官兵衛と二十四騎』[[宮帯出版社]]、2014年、193-205頁
*[[本山一城]]『黒田官兵衛と二十四騎』[[宮帯出版社]]、2014年、193-205頁


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2016年10月4日 (火) 09:52時点における版

 
吉田長利
吉田長利像(福岡市博物館蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文16年(1547年
死没 元和9年9月22日1623年11月14日
改名 長坊/与太郎(幼名)→六之助(初名)→長利→水庵/翠庵(号)
別名 通称:六郎太夫
官位 壱岐
主君 黒田職隆孝高
筑前福岡藩
氏族 八代氏吉田氏
父母 父:八代道慶、母:隅田氏
三木善界
与次、重成野村祐勝後室
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吉田 長利(よしだ ながとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将福岡藩士。黒田二十四騎の一人。

略歴

黒田孝高の1歳年下である。孝高の母が乳の出が悪かったため、長利の母が授乳しており、孝高とは乳兄弟に当たる。永禄6年(1563年黒田職隆に出仕。永禄7年(1564年)、父・八代道慶浦上清宗の婚礼に同席した際、赤松政秀の襲撃を受けて負傷し、それが元で後に没した。永禄9年(1566年)、孝高の勧めにより、家老・吉田重生の姓を譲られて吉田姓となる。

その後、青山・土器山の戦い別所氏による置塩城攻め、印南野合戦、備中高松城の戦い、財部城攻めなど様々な合戦に従軍して戦功を挙げる。この間の天正8年(1580年)には、長男の与次が三木合戦で19歳で討死している。天正16年(1588年)の城井鎮房暗殺時には、城門の警備に当たり、鎮房の家老・塩田内記や家臣50人を銃撃して城内に入るのを防いだ。孝高が豊前を平定すると、長利は1,282石を与えられた。

文禄・慶長の役には、子・重成と共に従軍。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後の富来城攻めで兜と歯茎に銃弾を受けるが、これが生涯で唯一の負傷であったという。慶長7年(1602年)、筑前国内に1,200石を与えられる。慶長9年(1604年)に孝高が死去した後、福岡城南の丸の城代を務め、黒田長政から「壱岐守」を与えられた。隠居後、水庵(翠庵)と号した。

元和9年(1623年)9月22日死去。享年77。

参考文献