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=== 中世 ===
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ゲディミナスの子[[アルギルダス]]の死後、大公の座をめぐって紛争が起こるとヴィリニュスは戦禍に見舞われる。勝者となった[[ヨガイラ]]は、ポーランド女王[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]と結婚し、[[ポーランド・リトアニア合同]]が誕生した。ヨガイラによってヴィリニュスは[[マクデブルク法]]の自治を獲得する。ヴィリニュスは順調な発展を続け、[[16世紀]]に入ると城壁も整備され、[[ジグムント2世]]の宮廷もここに移された。ヴィリニュスは公国領の各地から集った多様な民族で殷賑を極めた国際都市へと発展した。[[1579年]]には[[ヴィリニュス大学]]が創立される。
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2016年9月7日 (水) 12:02時点における版

ヴィリニュス
Vilnius
ヴィリニュスの市旗 ヴィリニュスの市章
市旗 市章
愛称 : 「北のイェルサレム」「リトアニアのアテネ」
位置
ヴィリニュスの位置(リトアニア共和国)の位置図
ヴィリニュスの位置(リトアニア共和国
座標 : 北緯54度41分20秒 東経25度16分50秒 / 北緯54.68889度 東経25.28056度 / 54.68889; 25.28056
歴史
文献に登場 1323年
市に制定 1387年
行政
 リトアニア
 地方 ズーキヤ
  ヴィリニュス郡
 自治体 ヴィリニュス都市自治体
 市 ヴィリニュス
地理
面積  
  市域 401 km2 (154.8 mi2)
人口
人口 2009年現在)
  市域 558,165人
    人口密度   1,391.9人/km2(3,605人/mi2
  都市圏 848,900人
その他
等時帯 EET (UTC+2)
夏時間 EEST (UTC+3)
郵便番号 LT-01001(中心部)

ヴィリニュスリトアニア語: Vilnius -発音: [ˈvʲɪlʲnʲʊs] ( 音声ファイル))は、リトアニア共和国首都で、同国最大の都市である。人口は 558,165 人(2009年現在)。かつてポーランド領だったこともある。バルト三国で唯一海に面していない首都で、バルト海に面したリトアニア主要港のクライペダからは 312 km離れている。

ヴィリニュスは、ヴィルネ川英語版ネリス川沿いに位置し、リトアニアの南東と地理的に偏ったところにある。これは過去数世紀の間に国境の形が変わっていったことと関係している。かつてリトアニア大公国の時代にヴィリニュスは国土の中央にあった。

1994年に旧市街はユネスコ世界遺産文化遺産)に登録された。また、2009年には欧州文化首都に選ばれたこともある。

都市名の表記

リトアニアにおける公用語であるリトアニア語では「Vilnius ヴィルニュス」と表記される。また、ソ連時代にはロシア語で「Вильнюс ヴィリニュス」と表記されていた。

日本語においては、ロシア語表記にもとづいて「ヴィリニュス」と表記されることが多かったが、リトアニアの独立回復以降は、リトアニア語にもとづいて「ヴィルニュス」と表記する例も増えてきている。そのほか、新聞などでは「ビリニュス」や「ビルニュス」とも表記される。

歴史的には、ロシア帝国時代においては当時のロシア語で「ヴィリナ」(Вильна)と呼ばれ、ポーランド第二共和国時代においてはポーランド語で「ヴィルノ」(Wilno)と呼ばれた。また、人口の多くを占めていたユダヤ人からはイディッシュ語で「ヴィルネ」(ווילנעラテン文字転写: Vilne)とも呼ばれた。

歴史

中世

リトアニア大公国の王ミンダウガスの居城の一つとして、この地に城が作られたのは13世紀であった。ゲディミナス朝の中興の祖・ゲディミナスによって公国の領土は、ベラルーシウクライナ、そしてドニエストル川全域、さらにはポーランドロシアの一部にまで拡大したが、ヴィルナ川英語版ネリス川という二つの航行可能な河川が流れ、森林と湿地に守られたヴィリニュスは公国の統治・防衛に好都合で、首都として機能するようになる(1323年、ゲディミナスがローマ教皇ヨハネス22世に宛てた書簡に都として名前が登場する)。

ゲディミナスの子アルギルダスの死後、大公の座をめぐって紛争が起こるとヴィリニュスは戦禍に見舞われる。勝者となったヨガイラは、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、ポーランド・リトアニア合同が誕生した。ヨガイラによってヴィリニュスはマクデブルク法の自治を獲得する。ヴィリニュスは順調な発展を続け、16世紀に入ると城壁も整備され、ジグムント2世の宮廷もここに移された。ヴィリニュスは公国領の各地から集った多様な民族で殷賑を極めた国際都市へと発展した。1579年にはヴィリニュス大学が創立される。

17世紀を迎えると、ポーランド・リトアニア共和国は、衰退が始まる。大洪水時代である。ロシア・ポーランド戦争では、ヴィリニュスはロシア帝国およびザクセン公国軍に占領され放火・略奪・大虐殺の甚大な被害を受ける。1710年にはペストの大流行で1700人を超える市民を失い、さらにたび重なる大火で、市は18世紀を通して衰退を極めた。さらに、ポーランド・リトアニア共和国は、ブランデンブルク=プロイセン、ロシア帝国、ハプスブルク君主国の三列強により3度にわたって分割される(ポーランド分割)。特に、1795年の第3次分割で、ヴィリニュスはロシア帝国に編入され、ヴィリニュスにはヴィルナ・グベールニヤの庁舎が置かれた。ロシア帝政下で、ヴィリニュスの城壁は破壊された。

1812年ロシア戦役では、モスクワ攻略に向かうナポレオン・ボナパルトによって、ヴィリニュスは再び破壊された。しかし、ナポレオンの大陸軍は当初、市民には歓迎された。1831年、第1回反ロシア蜂起(11月蜂起)が起こるとヴィリニュス大学は閉鎖され、ヴィリニュスは圧政下に置かれた。1863年に始まる第2回反ロシア蜂起(1月蜂起)は激しい市街戦となり、鎮圧したロシアはリトアニア語とポーランド語を禁じるロシア化政策を強行、リトアニア人がヴィリニュスをそしてリトアニアを離れることになった。

20世紀

20世紀初頭にはヴィリニュスでリトアニア語を母語とする市民はごく少数しか残っていない惨状に至った。第一次世界大戦中、ヴィリニュスはドイツ帝国の占領下に置かれた。ドイツ占領下で、リトアニアは独立を宣言。ドイツ軍撤退後、ヴィリニュスはポーランド民兵部隊の支配下に置かれた。ポーランド・ソビエト戦争が起こると、ヴィリニュスは、赤軍とポーランド軍の度々の戦場となる。リトアニアは、ソ連とポーランドの双方を相手に戦いながら(en:Lithuanian–Soviet Waren:Polish–Lithuanian War)、1920年リトアニア共和国を宣言。しかし、その首都としてヴィリニュスを認めたくないポーランドは、7月にソ連とリトアニア間で締結された条約(en:Soviet–Lithuanian Peace Treaty)を無視して、ヴィリニュスへ軍事侵攻。10月7日スヴァウキ協定英語版締結後、en:Żeligowski's Mutinyがヴィリニュスを占領すると、10月12日に傀儡国家の中部リトアニア共和国が作られ、その数年後ポーランドに編入された。ポーランドによる侵攻以後、リトアニア共和国は首都機能をカウナスに移転し、その後22年間カウナスが「臨時首都」とされたが、憲法上はあくまでもヴィリニュスを首都として規定していた。ポーランド領となったヴィリニュスではポーランド語やイディッシュ語が話されるようになった。

第二次世界大戦が勃発すると、1939年、ヴィリニュスは、ソヴィエト連邦(ソ連)とリトアニアによってポーランド支配から奪還される。ソ連軍はすぐにヴィリニュスから撤退、リトアニアが自治を回復したかに見えた。しかし、翌1940年にリトアニアはリトアニア・ソビエト社会主義共和国となり、事実上ソ連に併合されて内務人民委員部(NKVD)によって市民4万人以上が逮捕・殺害され、極東シベリアのグラグに連行された。さらに市内の工場にある機械は全て外部に持ち出された。ナチス・ドイツバルバロッサ作戦を開始するやヴィリニュスはナチスに占領され、大きなユダヤ人社会のあったヴィリニュスには二つのゲットーヴィリニュス・ゲットー)が作られユダヤ人が隔離された。最終的に多くのユダヤ人の命が奪われた(詳細は、en:Ponary massacre及びリトアニアにおけるホロコーストを参照。)。1944年には再び、ヴィリニュスはソ連の支配するところとなり、多くのアールミヤ・クラヨーヴァ: Armia Krajowa、略称: AK)が処刑された。また今度はインテリ階級が逮捕・強制連行され、シベリアのグラグ送りとなった。1949年、なおもソ連から独立闘争を続けるリトアニアは、人民の敵ソビエト連邦共産党から認定され、一般市民まで数十万人がシベリア・中央アジアに強制連行された。

1990年、ヴィリニュスの共和国最高会議議長に就任した非共産党員ランズベルギスは、ソヴィエト連邦を構成する共和国で真っ先に独立を宣言、リトアニア共和国が復活した。1991年1月にゴルバチョフ政権は、テレビ塔や放送局を急襲、14人を殺害、独立阻止を企てた(血の日曜日事件)。8月、ソ連8月クーデターでリトアニア共和国の独立が認められた。リトアニア共和国憲法は第17条で、リトアニアの首都はヴィリニュス市であると規定している。

民族構成

ヴィリニュスはリトアニア人の非常に少ない街で、全住民におけるリトアニア人の割合はロシア統治下の1897年では2.1%[1]、ドイツ統治下の1916年では2.6%[2]であった。1931年におけるヴィリニュスの民族構成は以下の通りである[3]

特に、現在世界遺産となっているヴィリニュス歴史地区(旧市街)の住民のほぼ 100 % はポーランド人であった[4][5]。しかし第二次世界大戦でヴィリニュスがソヴィエト連邦領となりリトアニア・ソヴィエト社会主義共和国に併合されると、戦後この街のポーランド人の多くがポーランドへと追放され、住民はリトアニア人とロシア人に取って代わられた。

2001年の統計では、ヴィリニュス市内の住民542,287人の構成は以下のようになっている。

地形

国土の南東部に位置し、ネリス川とヴィルナ川の合流地点にある。ヴィリニュスという名は、このヴィルナ川に由来する。ヨーロッパの地形上の中心に位置している。バルト海に面するクライペダへは312kmの内陸部である。カウナスへ102km、シャウレイへ214km、パネヴェジースへ135kmである。

気候

ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候(Dfb)に属する。年間平均気温は6.1℃、1月の平均気温は-4.9℃、7月は17.0℃である。年間降水量は平均で661 mm。夏は30℃を越えることも珍しくない。冬は氷点下が普通で、湖は氷結し、氷上の穴釣り(ice fishing)が人気のある娯楽である。

リトアニア・ヴィリニュスの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F −3.5
(25.7)
−1.7
(28.9)
3.3
(37.9)
10.7
(51.3)
18.2
(64.8)
21.1
(70)
22.1
(71.8)
21.6
(70.9)
16.4
(61.5)
10.2
(50.4)
3.5
(38.3)
−0.5
(31.1)
10.1
(50.2)
平均最低気温 °C°F −8.7
(16.3)
−7.6
(18.3)
−3.8
(25.2)
1.6
(34.9)
7.5
(45.5)
10.8
(51.4)
12.3
(54.1)
11.5
(52.7)
7.7
(45.9)
3.4
(38.1)
−0.9
(30.4)
−5.2
(22.6)
3.4
(36.4)
降水量 mm (inch) 41
(1.61)
38
(1.49)
39
(1.53)
46
(1.81)
62
(2.44)
77
(3.03)
78
(3.07)
72
(2.83)
65
(2.56)
53
(2.09)
57
(2.24)
55
(2.17)
683
(26.9)
出典:The World Meteorological Organization.[6] 2006年11月.

経済

ヴィリニュスの金融街

ヴィリニュスはリトアニアの人口の15%であるが、GDPの25%、国家予算の37%を占めている。バルト三国でも主要な金融都市に成長している。FlyLalの本社などがある。

交通

  • ヴィリニュス・バス・ターミナル
旧市街の南にある。トロリーバス(1番、2番、5番、7番)で市の中心部に出られる。リガタリンワルシャワ方面を中心に、毎日多くの国際線バスがある。
  • ヴィリニュス駅
旧市街の南にある。隣がヴィリニュス・バス・ターミナルである。ワルシャワ方面の国際列車は運休中で、モスクワベラルースキー駅)やサンクトペテルブルクヴィチェプスク駅)などロシアへの国際列車が毎日運行されている。モスクワへの列車はベラルーシを経由する。夏季には、シンフェロポリなどウクライナ方面への国際列車もリガからヴィリニュス経由で運行される。国内ではカウナスなどへの路線がある。
市の南5kmにある。市のバス(1番または2番)で、ヴィリニュス駅や中心部に出られる。リトアニア航空がハブ空港としてきたが、経営難から運行が停止された。ラトビアエア・バルティックがセカンドハブとして、この空港を利用しているが、ヴィリニュスの国際路線は年々急速に減少している。空港ターミナルは1950年代の典型的な旧ソ連建築であったが、シェンゲン協定の規定に準拠した新しいターミナルが完成した。

市の公共交通としては、60を超えるバス路線と20を超えるトロリーバス路線がある。トロリーバスのネットワークはヨーロッパでも最大規模である。トラム建設の計画はかねてからあるが、未だ実現していない。また地下鉄建設の計画もある。

ヴィリニュス旧市街

世界遺産 ヴィリニュス歴史地区
リトアニア
夜明けの門通り
英名 Vilnius Historic Centre
仏名 Centre historique de Vilnius
登録区分 文化遺産
登録基準 (2),(4)
登録年 1994年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

旧市街の面積は、3.6平方キロメートルと欧州内でも最大級であり(東欧最大)、歴史的・文化的事物が集積されている。バルト三国のリガやタリンと較べて、旧市街地には城壁など明瞭な境界がなく、また旧市街地が形成される過程で、ドイツ騎士団ハンザ同盟の影響は見られない。旧市街の建築物は約1,500ほどあり、様々なスタイルのものが見られる。バロック様式のものが多いように思われているが、実際にはゴシックルネッサンス様式もある。旧市街は1994年に世界遺産に登録されている。

主な観光地は以下の通り。

  • ゲティミナス塔
  • 聖アンナ教会
  • ヴィリニュス大聖堂
  • 聖カジミエル教会
  • 聖ペテロ・パウロ教会
  • 生神女就寝大聖堂
  • 聖ニコラス教会
  • 夜明けの門
  • カライメ博物館
  • トラカイ城(郊外のトラカイ市)

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

ギャラリー

スポーツ

シーメンスアリーナ

バスケットボールが盛んで、リトアニア・バスケットボール・リーグバルティック・リーグに加盟している強豪・BCリエトゥヴォス・リータスが有名。競技場としては11,000人を収容するシーメンスアリーナがあり、重要なバスケットボールの試合はここで行われる。

姉妹都市

脚注

  1. ^ Demoscope.
  2. ^ Michał Eustachy Brensztejn,1919 "Spisy ludności m. Wilna za okupacji niemieckiej od. 1 listopada 1915 r." Biblioteka Delegacji Rad Polskich Litwy i Białej Rusi, Warsaw
  3. ^ "Drugi Powszechny Spis Ludności z dnia 9 XII 1931 r." Statystyka Polski, volume D issue 34, year 1939
  4. ^ "Drugi Powszechny Spis Ludności z dnia 9 XII 1931 r." Statystyka Polski, volume D issue 34, year 1939
  5. ^ Michael MacQueen, The Context of Mass Destruction: Agents and Prerequisites of the Holocaust in Lithuania, Holocaust and Genocide Studies, Volume 12, Number 1, pp. 27-48, 1998
  6. ^ (英語) Weather Information for Vilnius. The World Meteorological Organization. 2006年12月12日閲覧.

関連項目

外部リンク