「終末論」の版間の差分

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地蔵信仰について追記
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(地蔵信仰について追記)
しかし、[[日本]]においては、[[平安時代]]後期に末法に突入するという目測と、[[鎌倉時代]]へ移り変わっていく不安感、当時の民衆の仏教への理解不足などが相まって、次第に、末法観念が終末論的に転化されていった。
 
[[浄土教]]では[[自力]]で悟ることが正法・像法の時代よりも困難になる(一部では不可能とする)が、成仏するための[[阿弥陀仏]](一部では末法の世にふさわしいものがあるとする)の力(一部では[[他力]])を求め、[[念仏]]せよ」と説く。[[日蓮]]は、今が末法であるとして、他の教えを捨てて[[法華経]]に帰依するように説いた。なお、[[禅宗]]でも末法はあるが、[[曹洞宗]]の開祖・[[道元]]は末法思想を否定している。(道元禅師の語録集である『[[正法眼蔵随聞記]]』に末法思想を方便として否定する記述がある<!--「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末を立つ事、しばらく一途の方便なり。真実の教道はしかあらず。依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。不可思議に希有に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」-->
 
[[弥勒菩薩|弥勒]]信仰に見られる下生信仰も、末法思想の一種である。[[中国]]では、[[北魏]]の[[大乗の乱]]が、この信仰によるものとされているし、[[清]]代の[[白蓮教徒の乱]]に代表される、相次いで勃発した[[白蓮教]]信徒による反乱も、この信仰に基づいている。
 
ただし、[[仏教]]では、[[原始仏教]]・初期[[大乗仏教]]を含めて、本来<!--大乗仏教では空論の展開から「不増不減、無始無終」を説き、-->この世の始まりや終わりを説いていない([[釈尊]]は時間に終わりがあるか、ないかという問いに対し、意味のない議論([[戯論]])であるとして「答えない」([[無記]])という態度をとっている)。さらに大乗経典の中でも、[[涅槃経]]などでは末法の世における救いを力説し、悲観的な見方を根本的に否定している。平安以降に広がった[[地蔵菩薩|地蔵]]信仰では、地蔵菩薩が釈尊入滅から弥勒菩薩が現れる間(末法)六道全ての衆生を救う役割を担うとされる。したがって、これらから仏教における末法思想は、この世の終わりを意味するような終末的思想とは異なることが理解できる。
 
== ヒンドゥー教 ==

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