「藤堂高敏」の版間の差分

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==生涯==
[[伊勢国|伊勢]][[津藩#久居藩|久居藩]]の初代藩主・[[藤堂高通]]の三男として生まれる。伊勢[[津藩]]の第2代藩主・[[藤堂高次]]の孫にあたる。2人の兄がいずれも早世したため、高通の[[嫡男]]となるが、元禄10年([[1697年]])に父が死去したときにまだ5歳の幼少だったことから、久居藩の家督は叔父の[[藤堂高堅|高堅]]が中継ぎして、高敏は成長してからその跡を継ぐこととなった。ところが本家の津藩において藩主・宝永元年([[藤堂高睦|高睦]]の2人の男子が全て早世したため、[[17051704年]]にその養嗣子となり)7月28日将軍[[1708年徳川綱吉]]に高睦の死去により跡を継いだお目見えした
ところが、本家の津藩において藩主・[[藤堂高睦|高睦]]の2人の男子が全て早世したため、宝永2年([[1705年]])5月19日、高睦の養嗣子となった。同年5月28日、将軍徳川綱吉にお目見えした。宝永4年12月23日、従四位下大学頭に叙任した。宝永5年([[1708年]])11月25日、養父高睦の死去により跡を継いだ。
 
藩政においては、[[宝永大噴火|宝永地震]]などの影響で凶作が相次ぎ財政が悪化し、正月の餅つきを中止するほどであった。

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