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== 歴史 ==
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=== 設立 ===
=== 設立 ===
[[ウィリアム・ライオンズ]](1901年 - 1985年、後に[[爵位]]を授与され'''サー'''・ウィリアム・ライオンズとなる)と、ライオンズの10歳年上の友人である{{仮リンク|ウィリアム・ウォームズレイ|en|William Walmsley}}により「[[スワロー・サイドカー・カンパニー]]」が1922年に設立された。
[[ウィリアム・ライオンズ]](1901年 - 1985年、後に[[爵位]]を授与され'''サー'''・ウィリアム・ライオンズとなる)と、ライオンズの10歳年上の友人である{{仮リンク|ウィリアム・ウォームズレイ|en|William Walmsley}}により「[[スワロー・サイドカー・カンパニー]]」が1922年に設立された<ref>『ワールド・カー・ガイド 12 (ジャガー)』35頁より。</ref>


会社は社名の通り[[サイドカー]]の製造で事業を拡大し、1926年には工場を移転して自動車のボディ修理も手がけた。ここから自動車のボディ製造(コーチワーク)を手がけるようになり、自動車メーカーへの転身を図ることになった。その上で、まずは自動車全体を一から作るのではなく、[[コーチビルダー]]としてボディ(車体)を手がけることから[[高級車]]メーカーへの道を目指した。
会社は社名の通り[[サイドカー]]の製造で事業を拡大し、1926年には工場を移転して自動車のボディ修理も手がけた。ここから自動車のボディ製造(コーチワーク)を手がけるようになり、自動車メーカーへの転身を図ることになった。その上で、まずは自動車全体を一から作るのではなく、[[コーチビルダー]]としてボディ(車体)を手がけることから[[高級車]]メーカーへの道を目指した。
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1927年に、当時のイギリスにおけるベストセラー[[大衆車]]である[[オースチン・7|オースチン・セブン]]の[[シャシ (自動車)|シャシ]]に、ライオンズ自身がデザインした高級感のある[[アルミニウム合金|アルミ]]製ボディを換装したモデル「オースチン・セブン・スワロー」を発表した。この車は2人乗りの[[オープンカー|ロードスター]]に始まり、[[セダン|サルーン]]も追加され、特にサルーンには特別な[[塗装|塗色]]として「デュオ・トーン」(写真参照)まで用意された。これは張り出したフェンダー部分とボディサイド・ルーフを塗り分ける手法だが、一部の限られた高級車でのみ行なわれており、[[大量生産|量産]]自動車での採用はスワローが初である。
1927年に、当時のイギリスにおけるベストセラー[[大衆車]]である[[オースチン・7|オースチン・セブン]]の[[シャシ (自動車)|シャシ]]に、ライオンズ自身がデザインした高級感のある[[アルミニウム合金|アルミ]]製ボディを換装したモデル「オースチン・セブン・スワロー」を発表した。この車は2人乗りの[[オープンカー|ロードスター]]に始まり、[[セダン|サルーン]]も追加され、特にサルーンには特別な[[塗装|塗色]]として「デュオ・トーン」(写真参照)まで用意された。これは張り出したフェンダー部分とボディサイド・ルーフを塗り分ける手法だが、一部の限られた高級車でのみ行なわれており、[[大量生産|量産]]自動車での採用はスワローが初である。


ライオンズは、サイドカー製造の経験から、'''「美しい物は売れる」'''という思想を持っており、元の車両より値段が高くなっても、デザインが美しければそれを求める顧客は必ず存在すると考えていた。その狙いは的中し、オースチン・セブン・スワローは1932年までに約2,500台(うち3分の2がサルーン)を生産するヒット車種になった。
ライオンズは、サイドカー製造の経験から、'''「美しい物は売れる」'''という思想を持っており、元の車両より値段が高くなっても、デザインが美しければそれを求める顧客は必ず存在すると考えていた。その狙いは的中し、オースチン・セブン・スワローは1932年までに約2,500台(うち3分の2がサルーン)を生産するヒット車種になった<ref>『ワールド・カー・ガイド 12 (ジャガー)』36頁より。</ref>


会社は1928年に社名を「スワロー・コーチビルディング・カンパニー」と変更するとともに[[コヴェントリー]]へ移転し、複数のメーカーからベースとなる車種を調達して新たなボディを架装、また内装も本革や[[布|ファブリック]]を使い豪華に仕立て直すようになった。
会社は1928年に社名を「スワロー・コーチビルディング・カンパニー」と変更するとともに[[コヴェントリー]]へ移転し、複数のメーカーからベースとなる車種を調達して新たなボディを架装、また内装も本革や[[布|ファブリック]]を使い豪華に仕立て直すようになった<ref>『ワールド・カー・ガイド 12 (ジャガー)』38頁より。</ref>


===「SSカーズ」時代===
===「SSカーズ」時代===
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そしてその後1984年に、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[マーガレット・サッチャー]]首相による民営化政策によって、ジャガーは再び民営化された。
そしてその後1984年に、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[マーガレット・サッチャー]]首相による民営化政策によって、ジャガーは再び民営化された。


抜本的な体質改善を行なったジャガーはさらに、1986年に完全な新設計となるXJ(XJ40)をデビューさせ「低品質」との悪評を打破することに成功したなおウィリアム・ライオンズは1985年に死去し、この車がデザインのチェックを受けた最後のモデルとなった。。1975年にEタイプの後継として投入されていた[[ジャガー・XJS|XJS]]も、[[モデルチェンジ (自動車) #マイナーモデルチェンジ(マイナーチェンジ)|マイナーチェンジ]]を重ねて信頼性の向上に努めた他、1980年代後半にコンバーチブルモデルを追加し、アメリカ市場を中心に人気車種となった。
抜本的な体質改善を行なったジャガーはさらに、1986年に完全な新設計となるXJ(XJ40)をデビューさせ「低品質」との悪評を打破することに成功したなおウィリアム・ライオンズは1985年に死去し、この車がのチェックを受けた最後のモデルとなった<ref>『ワールド・カー・ガイド 12 (ジャガー)』106頁より</ref>。1975年にEタイプの後継として投入されていた[[ジャガー・XJS|XJS]]も、[[モデルチェンジ (自動車) #マイナーモデルチェンジ(マイナーチェンジ)|マイナーチェンジ]]を重ねて信頼性の向上に努めた他、1980年代後半にコンバーチブルモデルを追加し、アメリカ市場を中心に人気車種となった。


また、1985年からは[[世界耐久選手権]](WEC)に参戦し、1986年には[[ジャガー・XJR-8|XJR-8]]でシリーズチャンピオンを獲得、さらに[[ジャガー・XJR-9|XJR-9LM]]で31年ぶりに[[1988年のル・マン24時間レース]]に優勝し、かつての名声を取り戻すことに成功した。
また、1985年からは[[世界耐久選手権]](WEC)に参戦し、1986年には[[ジャガー・XJR-8|XJR-8]]でシリーズチャンピオンを獲得、さらに[[ジャガー・XJR-9|XJR-9LM]]で31年ぶりに[[1988年のル・マン24時間レース]]に優勝し、かつての名声を取り戻すことに成功した。
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== 呼称 ==
== 呼称 ==
日本では通常「'''ジャガー'''」と表記されるが、'''JAGUAR'''の[[イギリス英語]]での[[発音]]を音写すると、カタカナでは「ジャギュア」と表記するのが最も近い。[[アメリカ英語]]では「ジャグヮ」と発音する。[[伊丹十三]]が1965年に出版した『[[ヨーロッパ退屈日記]]』には'''「ジャギュア」というのだよ'''という文章があって、知る人ぞ知る読み方となった。[[日本]]ではオースチンローバージャパン(ARJ、後のローバージャパン)が輸入代理店だった1985年頃「ジャグヮー」の表記を広告等で使用したことがあったが、一般には定着せず、ジャガージャパンに輸入代理権が移ると「ジャガー」の表記に戻されている。なお自動車評論家の[[徳大寺有恒]]は「ジャグァー」という表記を好んで使用していた。
日本では通常「'''ジャガー'''」と表記されるが、'''JAGUAR'''の[[イギリス英語]]での[[発音]]を音写すると、カタカナでは「ジャギュア」と表記するのが最も近い。[[アメリカ英語]]では「ジャグヮ」と発音する。[[伊丹十三]]が1965年に出版した『[[ヨーロッパ退屈日記]]』には'''「ジャギュア」というのだよ'''という文章があ、知る人ぞ知る読み方となった。[[日本]]ではオースチンローバージャパン(ARJ、後のローバージャパン)が輸入代理店だった1985年頃「ジャグヮー」の表記を広告等で使用したことがあったが<ref group="注釈">「ジャグヮーとお呼びください」というキャッチコピーを使用していた。</ref>、一般には定着せず、ジャガージャパンに輸入代理権が移ると「ジャガー」の表記に戻されている。なお自動車評論家の[[徳大寺有恒]]は「ジャグァー」という表記を使用していた。


== 注 ==
== 注 ==
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*ワールド・カー・ガイド12ジャガーネコ・パブリッシング ISBN 4-87366-105-6
*{{Cite book|和書|author=|year=1997|title=ワールド・カー・ガイド 12 (ジャガー)|publisher=[[ネコ・パブリッシング]]|isbn=4873661056}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2016年5月6日 (金) 00:55時点における版

ジャガー
Jaguar Cars
種類 Private Limited Company
略称 ジャガー
本社所在地 イギリスの旗 イギリスコヴェントリー
設立 1922年
業種 自動車製造業
事業内容 自動車
代表者 デイヴィッド・スミス(CEO
従業員数 10000
主要株主 イギリスの旗 ジャガーランドローバー
関係する人物 ウィリアム・ライオンズ(創設者)
外部リンク http://www.jaguar.com
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ジャガーJaguar Cars )は、イギリス自動車メーカー・ブランドである。現在はランドローバーとともに、インドタタ・モーターズ傘下のジャガーランドローバーの一部である。

歴史

設立

ウィリアム・ライオンズ(1901年 - 1985年、後に爵位を授与されサー・ウィリアム・ライオンズとなる)と、ライオンズの10歳年上の友人であるウィリアム・ウォームズレイ英語版により「スワロー・サイドカー・カンパニー」が1922年に設立された[1]

会社は社名の通りサイドカーの製造で事業を拡大し、1926年には工場を移転して自動車のボディ修理も手がけた。ここから自動車のボディ製造(コーチワーク)を手がけるようになり、自動車メーカーへの転身を図ることになった。その上で、まずは自動車全体を一から作るのではなく、コーチビルダーとしてボディ(車体)を手がけることから高級車メーカーへの道を目指した。

「スワロー」時代

オースチン・セブン・スワロー・サルーン

1927年に、当時のイギリスにおけるベストセラー大衆車であるオースチン・セブンシャシに、ライオンズ自身がデザインした高級感のあるアルミ製ボディを換装したモデル「オースチン・セブン・スワロー」を発表した。この車は2人乗りのロードスターに始まり、サルーンも追加され、特にサルーンには特別な塗色として「デュオ・トーン」(写真参照)まで用意された。これは張り出したフェンダー部分とボディサイド・ルーフを塗り分ける手法だが、一部の限られた高級車でのみ行なわれており、量産自動車での採用はスワローが初である。

ライオンズは、サイドカー製造の経験から、「美しい物は売れる」という思想を持っており、元の車両より値段が高くなっても、デザインが美しければそれを求める顧客は必ず存在すると考えていた。その狙いは的中し、オースチン・セブン・スワローは1932年までに約2,500台(うち3分の2がサルーン)を生産するヒット車種になった[2]

会社は1928年に社名を「スワロー・コーチビルディング・カンパニー」と変更するとともにコヴェントリーへ移転し、複数のメーカーからベースとなる車種を調達して新たなボディを架装、また内装も本革やファブリックを使い豪華に仕立て直すようになった[3]

「SSカーズ」時代

SS1
SS 2

さらに1933年には、専用設計のシャシーを持つ「SS1」と「SS2」を発売しヒットさせ「SSカーズ」と社名を変更した。これらのモデルは、同じイギリスの高級車で上のクラスに属するベントレーをも思わせる見栄えのする外見と内装を備え、不況下でも大いに売れたが、エンジンは量産車メーカー・スタンダード製の実用エンジンで性能も凡庸であり、自動車専門家やマニア層からは「見かけ倒しのまがい物」と侮られていた。

その世評を打開するため、1935年には、ボディだけでなくエンジンとシャシーを含む全てを専用設計としたモデルを開発することに成功した。この新型車には今までと区別する意味から「ジャガー」をいう車名を新たに付け「SSジャガー2½」として発表、続いて大排気量エンジンを積んだスポーツモデル「SS90」「SS100」を相次いで投入した。新しいジャガー各車は従前からの優れたスタイリングと豪奢な内装に加え、強化されたエンジンと量産効果によるコストダウン戦略の導入で、先発の高級車に劣らない高性能を遙かに安い価格で実現しており(当時、1,500ポンドのベントレーにも比肩する高性能なジャガーが、400ポンド足らずで販売された)、高い人気を得た。この頃から、上級車製造を事業の中核に移して行った。上位メーカーに劣らない内外装デザインや性能を、相対的に安価で顧客に提供するというこの手法は、現在まで続くジャガーの基本戦略の1つである。

21歳の若さでサイドカー製造メーカーを設立したライオンズは、わずか13年で会社を著名な高級車メーカーへと発展させることに成功した。なお相方のウォームズレイは、事業の拡大に反対しSSカーズへの社名変更直前に会社経営から脱退している。

1939年9月に勃発した第二次世界大戦時には、戦時体制下において乗用車の生産は縮小せざるを得なかったが、軍用車両の委託生産などを行うことで糊口をしのいだ。

「ジャガー」時代

マーク2 3.4

社名の「SSカーズ」、ブランドの「SSジャガー」は敵国ドイツナチ党組織・親衛隊の略称でもあってその好ましくないイメージを想起させるため、第二次世界大戦後の1945年に車名を「ジャガー・カーズ」、ブランドを単に「ジャガー」に変更した。

1948年に発表された戦後型スポーツカーのXK120は、その流麗なスタイリングと高性能、また同程度の性能を持つアストンマーティンやベントレーと比べて圧倒的に安価だったことから大人気となり、高級車ブランドとしてのイメージを決定付ける重要なモデルとなった。その多くがアメリカ合衆国向けに輸出されて多大な商業的成功を収め、続いて発展型のXK140XK150も送り出された。

また1950年代にはレーシングカー開発に乗り出し、自動車史上初めての4輪ディスクブレーキを備えたCタイプDタイプを投入、フェラーリメルセデス・ベンツポルシェなどのライバルを圧倒。ル・マン24時間レースで5回の優勝を飾るなど、モータースポーツでの活躍を重ね、名声を確固たるものにしていった。

さらにXKシリーズや大型サルーンに止まらず、1950年代後期以降はスモールサルーンのMk2、全輪独立懸架のスポーツカー・Eタイプなどの高性能車を市場に送り出し、世界最大の自動車市場であるアメリカ合衆国での販路を拡大する。1960年に高級車メーカーのデイムラーを買収したことで企業体制も磐石なものになった。アメリカ市場での成功でイギリスの外貨獲得に大きく貢献したウィリアム・ライオンズは、その功績から1957年に「サー」の称号を受けている。

冬の時代

XJ6(シリーズ2)

その後ジャガーは順調な経営を続けたものの、1966年7月に、イギリス最大の民族資本系グループである「ブリティッシュ・モーター・コーポレーション」(BMC)との合併を行い「ブリティッシュ・モーター・ホールディングス」(BMH)を結成した。この突然の決定は、企業体制をさらに強固にするためのライオンズ自身による意思であるとされている。

しかし、1968年にはBMH主要モデルの販売不振から、BMH自体が経営不振に陥ることになる。事態を重く見たイギリス政府は、もう一つの民族資本系グループである「レイランド・モーター・カンパニー」との統合を決め「ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション(BLMC)」として参集させた。

そのような背景のなか、ジャガーは同年1968年にスモールサルーンの後継モデルとなるXJを投入した。しかし、本来は高級車メーカーであるはずのジャガーは、作業員のレベル自体がBLMCの平均に下げられることになり、またこの時代のイギリスで多発した労働運動の激化による品質低下に陥った。必然的に販売台数は大幅に減少した。また古参社員の引退が相次ぎ、ライオンズも1972年に経営の座から退いた。

加えてオイルショックの影響も受け、世界的に自動車の販売自体が激減する。倒産寸前になったBMLCは遂に1975年8月に国営化され、ブリティッシュ・レイランド(BL)となる。傘下のジャガーは「冬の時代」を歩み続けることになる。

復活

XJ6(XJ40)

1979年、ジャガーは新たな経営トップとして社外からジョン・イーガンを招いた。彼は乱れた生産体制や経営の改革に着手し、作業員の意欲向上、日本企業並みの品質管理(QC運動)による生産品質改善、販売手法の刷新と顧客からのフィードバック反映、そして経営のリストラを推し進め成功した。

そしてその後1984年に、保守党マーガレット・サッチャー首相による民営化政策によって、ジャガーは再び民営化された。

抜本的な体質改善を行なったジャガーはさらに、1986年に完全な新設計となるXJ(XJ40)をデビューさせ「低品質」との悪評を打破することに成功した。なおウィリアム・ライオンズは1985年に死去し、この車がライオンズのチェックを受けた最後のモデルとなった[4]。1975年にEタイプの後継として投入されていたXJSも、マイナーチェンジを重ねて信頼性の向上に努めた他、1980年代後半にコンバーチブルモデルを追加し、アメリカ市場を中心に人気車種となった。

また、1985年からは世界耐久選手権(WEC)に参戦し、1986年にはXJR-8でシリーズチャンピオンを獲得、さらにXJR-9LMで31年ぶりに1988年のル・マン24時間レースに優勝し、かつての名声を取り戻すことに成功した。

フォード傘下

Sタイプ

その後1989年に、ブランドイメージを高く評価したフォードグループが、25億ドルでジャガーを買収し、フォードの傘下に入ることとなる。その後ジャガーは、同時期に買収されたランドローバーボルボなどとともに、フォードグループの高級車部門「PAG」の一翼を担うこととなった。

フォード傘下に入った後には、リンカーンやフォードとのコンポーネントやパーツの共用を進め、かつての人気車種の名前を使ったミドルクラス・サルーンのSタイプや、初の小型車であるXタイプを市場に投入するなど、かつてない勢いでモデルレンジを拡大した。また、2000年からはジャガー・レーシングの名でフォーミュラ1に参戦した。

現在

しかし、2000年代後半に入り、フォードグループは経営不振からPAGブランドの各社を手放さざるを得なくなり、インドタタ・モーターズとジャガーおよびランドローバーの売却について交渉を進めた。最終的に、2008年3月26日にジャガーおよびランドローバーはタタに約23億ドルで買収された[5]。フォードの撤退後も業務提携により、排気量ダウンサイジングターボエンジン「エコブースト」の供給を受け各車種に搭載していたが、2014年、設計・開発・製造まで一貫して開発した、ディーゼル/ガソリン両種対応の新世代モジュラーエンジン「INGENIUM(インジニウム)」を発表し、順次搭載している。

1970年代から2000年代にかけ、イギリスの自動車メーカー・ブランドの多くが市場淘汰と外資売却の荒波に呑まれ、独自ブランドのほとんどが壊滅に至った中、ジャガーは国外資本傘下となりながらもイギリス系の量産型高級乗用車・スポーツカーブランドとして存続する、数少ない例外となっている。

イギリス王室御用達

高級車では XJ(1968年 - 現在)がトニー・ブレア以降の首相公用車に選ばれている。また、エリザベス2世女王、エディンバラ公チャールズ皇太子からワラント(御用達指定)を下賜されている。

車種一覧

XF
XJ
XK コンバーチブル
Eタイプ
XJ220

現行モデル

デイムラー

ここではジャガー傘下に入ってからのモデルを挙げる。

絶版モデル

コンセプトモデル

モータースポーツ

スポーツカーレース

Cタイプ
XJR-9

ジャガーは1950年代から、スポーツカーレース、特にル・マン24時間レースで活躍した。1951年1953年にCタイプで、1955年から1957年までDタイプで総合優勝した。

その後モータースポーツから遠ざかっていたが、1980年代中盤にトム・ウォーキンショー率いるTWR チームがジャガーのV12エンジンを使った耐久スポーツカー(プロトタイプレーシングカー)レース用の車を設計した。TWRチームは1988年のル・マン24時間レース1990年のル・マン24時間レースで総合優勝した。

F1

日本でのビジネス

新東洋企業」(1970年代)、「オースチン・ローバー・ジャパン」(1980年代前半)など、いくつかのインポーターの変遷を経て、1986年西武百貨店との共同出資で日本法人「ジャガージャパン株式会社」が設立された。その後1999年西武百貨店が資本を撤退し、ジャガー・カーズ単独でジャガージャパンが運営されていたが、フォードPAGグループの発足に伴い、日本国内のPAGブランドの統括法人「ピー・エー・ジーインポート」と合併することとなった。

2005年、同じPAGブランドのランドローバーと営業部門を統合し「ジャガー&ランドローバージャパン」として運営を開始。独立店舗の他にも両ブランドの複合ショールームを展開する。

2008年3月26日、ジャガーとランドローバーがタタに約23億ドルで買収されたことに伴い、フォードPAGグループから離脱することとなり、同年10月より日本でのビジネスは「ジャガー・ランドローバー・ジャパン株式会社」が統括することとなった。

2013年から全国販売網がランドローバーとの併売店に一本化され、これに伴い規定の店舗面積を確保できなかった店舗は契約打ち切りとなった。

2014年9月17日、ジャガー日本法人はテニスの全米オープンで準優勝を果たした錦織圭をV8 F タイプのブランドアンバサダー(大使)に任命したと発表。同年11月20日には錦織選手をイメージした『KEI NISHIKORI EDITION』の発売記念イベントを開催した[6]

呼称

日本では通常「ジャガー」と表記されるが、JAGUARイギリス英語での発音を音写すると、カタカナでは「ジャギュア」と表記するのが最も近い。アメリカ英語では「ジャグヮ」と発音する。伊丹十三が1965年に出版した『ヨーロッパ退屈日記』には「ジャギュア」というのだよという文章があり、知る人ぞ知る読み方となった。日本ではオースチンローバージャパン(ARJ、後のローバージャパン)が輸入代理店だった1985年頃「ジャグヮー」の表記を広告等で使用したことがあったが[注釈 1]、一般には定着せず、ジャガージャパンに輸入代理権が移ると「ジャガー」の表記に戻されている。なお自動車評論家の徳大寺有恒は「ジャグァー」という表記を使用していた。

注釈

  1. ^ 「ジャグヮーとお呼びください」というキャッチコピーを使用していた。

出典

  1. ^ 『ワールド・カー・ガイド 12 (ジャガー)』35頁より。
  2. ^ 『ワールド・カー・ガイド 12 (ジャガー)』36頁より。
  3. ^ 『ワールド・カー・ガイド 12 (ジャガー)』38頁より。
  4. ^ 『ワールド・カー・ガイド 12 (ジャガー)』106頁より。
  5. ^ フォードがジャガーとローバーをタタ自動車に売却
  6. ^ 錦織圭『テニプリ』イラストに感激 ジャガー『Fタイプ KEI NISHIKORI EDITION』発売記念イベントoriconofficial動画ニュース

参考文献

  • 『ワールド・カー・ガイド 12 (ジャガー)』ネコ・パブリッシング、1997年。ISBN 4873661056 

外部リンク