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無論、パスカルの命題は特定の神に制限されたものではないが、彼自身はキリスト教の神を前提としていた。以下、そのことが述べられている文章を、彼の著作である[[パンセ]]より引用する。
無論、パスカルの命題は特定の神に制限されたものではないが、彼自身はキリスト教の神を前提としていた。以下、そのことが述べられている文章を、彼の著作である[[パンセ]]より引用する。


{{Quote |信仰の理由を説明できないからといって、それで一体誰がキリスト教徒を非難できるというのか。キリスト教徒が自らの信仰を事細かに説明したというのに、人々はそれを"馬鹿げている" ([[ラテン語|羅]]:''stultitiam'' [[英語|英]]:foolishness)と言う。証明できないからといって、不平をこぼすのか。もしキリスト教徒がそれを説明できてしまうなら、彼らはたちまち信仰を失うだろう。彼らが思慮分別のあることを示すのは、信仰が証明できないものであるからだ。 | ''パンセ'', nº 233}}
{{Quote |信仰の理由を説明できないからといって、それで一体誰がキリスト教徒を非難できるというのか。キリスト教徒が自らの信仰を事細かに説明したというのに、人々はそれを"馬鹿げていること"([[ラテン語|羅]]:''stultitiam'')と言う。証明できないからといって、不平をこぼすのか。もしキリスト教徒がそれを説明できてしまうなら、彼らはたちまち信仰を失うだろう。彼らが思慮分別のあることを示すのは、信仰が証明できないものであるからだ。 | ''パンセ'', nº 233}}


パスカルはさらに、神の存在を示す様々な証明に関して、見当違いであるとして異議を唱えた。もし証明が正しいとしても、証明のために仮定された存在が伝統的に信仰対象であった神とそぐわず、それらは神の啓示による宗教ではなく、[[理神論]]へとつながってしまうのである。<ref>{{Citation | title = Pensées | last = Pascal | first = Blaise | language = French | trans_title = Thoughts | publisher = Charles Louandre | place = Paris | year = 1854 | page = 40}}.</ref>
パスカルはさらに、神の存在を示す様々な証明に関して、見当違いであるとして異議を唱えた。もし証明が正しいとしても、証明のために仮定された存在が伝統的に信仰対象であった神とそぐわず、それらは神の啓示による宗教ではなく、[[理神論]]へとつながってしまうのである。<ref>{{Citation | title = Pensées | last = Pascal | first = Blaise | language = French | trans_title = Thoughts | publisher = Charles Louandre | place = Paris | year = 1854 | page = 40}}.</ref>

2016年4月8日 (金) 11:03時点における版

信仰主義 は、信仰理性は独立したものである、という認識論の理論である。信仰と理性は相反するものであり、特定の真実にたどり着くためには、信仰の方が重要であると主張される。[1]

神学者哲学者は、形而上学的な事柄、道徳宗教信念の真実を捉える際に、様々な方法で信仰と理性を考察してきたが、信仰主義は一般的に次の四人の哲学者に帰するとされる。 それはすなわち、パスカルセーレン・キェルケゴールウィリアム・ジェームズルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインである。信仰主義は反対論者によって否定的なイメージを付されることがあり、また、信仰主義にも多くの形態があるので、ある形態の信仰主義が必ずしも支持されるわけではない。 [2] [3]

概説

アルバン・プランティンガ英語版は信仰主義を、「信仰のみへの排他的あるいは根本的な依存」であり、「その依存がゆえに理性が軽視され、哲学的あるいは宗教的な真実を追究するために利用される」と述べている。信仰主義者はそれゆえに「哲学的で宗教的な事柄においては、理性よりも信仰に依存することを促す」のであり、それゆえに理性の訴えを軽視することがある。[5]信仰主義者は万物に共通する真実を探求する。そして理性はある種の真実には到達し得ず、それらの真実には信仰をもってのみたどり着くことができると断言する。[4]プランティンガの定義は、信仰主義者が反対するのは「理性」それ自身ではなく、根拠がない信念は持つべきでないという証拠主義英語版である、と言い換えることができる。

歴史

主な記事:宗教と科学

テルトゥリアヌス「不合理なるがゆえに我信ず」

Credo quia absurdum (:I believe because it is absurd :不合理なるがゆえに我信ず)という言葉は、しばしばテルトゥリアヌスのものであるとされる。しかしこれは、テルトゥリアヌスのDe Carne Christi (:On the Flesh of Christ)という書からの誤った引用であると考えられる。[6]テルトゥリアヌスが実際にDCC 5で記したことは、「......神の子は死んだ。それは信じるほかない、なぜなら、それは不合理であるからだ。」[7]

しかしながらこれは、信仰主義の立場から述べられたものではない。テルトゥリアヌスは知的傲慢や哲学の悪用を批判していたが、同時に、信仰を守るためには理性が有用であると信じていたためである。 [1][8]

パスカルと信仰主義

パスカル

パスカルによっても、信仰主義が唱えられた。パスカルは無神論の考えを取り入れ、神への信仰は、潜在的な報奨を持ち合わせた無償の選択であるとみなした。[9] パスカルは神が存在するかどうかは問題にせず、神の存在を真実であると想定することに価値があるかどうかについて述べた。
無論、パスカルの命題は特定の神に制限されたものではないが、彼自身はキリスト教の神を前提としていた。以下、そのことが述べられている文章を、彼の著作であるパンセより引用する。

信仰の理由を説明できないからといって、それで一体誰がキリスト教徒を非難できるというのか。キリスト教徒が自らの信仰を事細かに説明したというのに、人々はそれを"馬鹿げていること"(:stultitiam)だと言う。証明できないからといって、不平をこぼすのか。もしキリスト教徒がそれを説明できてしまうなら、彼らはたちまち信仰を失うだろう。彼らが思慮分別のあることを示すのは、信仰が証明できないものであるからだ。
パンセ, nº 233

パスカルはさらに、神の存在を示す様々な証明に関して、見当違いであるとして異議を唱えた。もし証明が正しいとしても、証明のために仮定された存在が伝統的に信仰対象であった神とそぐわず、それらは神の啓示による宗教ではなく、理神論へとつながってしまうのである。[10]

参考文献

  1. ^ a b Amesbury 2005.
  2. ^ Amesbury 2005, section 2.2.
  3. ^ Taliaferro, Charles (2000), Quinn, Philip L, ed., A companion to philosophy of religion, Malden, MA: Blackwell, p. 376, ISBN 0-631-21328-7, http://books.google.com/?id=9X-3sPj9m34C&pg=PA376 
  4. ^ a b Amesbury 2005, section 1.
  5. ^ Plantinga, Alvin (1983). "Reason and Belief in God" in Alvin Plantinga and Nicholas Wolterstorff (eds.), Faith and Rationality: Reason and Belief in God, page 87. (Notre Dame: University of Notre Dame Press).[4]
  6. ^ Vainio, Olli-Pekka (2010). Beyond Fideism: Negotiable Religious Identities. Transcending boundaries in philosophy and theology. Ashgate. p. 25. ISBN 978-1-40940679-2. http://books.google.com/books?id=tyTSs_dqwkcC 
  7. ^ Tertullian, On the Flesh of Christ, Fathers, New Advent, http://www.newadvent.org/fathers/0315.htm .
  8. ^ Osborn, Eric (2003). Tertullian, First Theologian of the West. Cambridge University Press. p. 28 
  9. ^ Geisler 1976, p. 49.
  10. ^ Pascal, Blaise (1854) (French), Pensées, Paris: Charles Louandre, p. 40 .