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'''ラール・クリシュナ・アードヴァーニー'''({{lang-sd|लाल कृष्ण आडवाणी}} [[1927年]][[11月8日]] - )は、[[インド]]の政治家。元[[インド人民党]]党首。 |
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その後、大衆連盟は[[インド国民会議|国民会議派]]の反主流派や左翼・地方政党と[[ジャナタ党]]を結成。ジャナタ党の選挙勝利で[[モラルジー・デーサーイー]]内閣が成立すると、情報・放送大臣を務める。 |
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2016年4月3日 (日) 07:13時点における版
ラール・クリシュナ・アードヴァーニー(シンド語: लाल कृष्ण आडवाणी 1927年11月8日 - )は、インドの政治家。元インド人民党党首。
生涯
1927年11月8日、カラチ生まれ。ムンバイ大学で法学の学位を取得後、民族義勇団に参加。 1965年に、インドに戻り、二人の子を産んだ。
政治経歴
1947年のインド・パキスタン分離独立後に、パキスタン領となったカラチからラージャスターン州に移りヒンドゥー至上主義者が中心となったインド大衆連盟結党に関わる。1951年、シャヤマ・プラサド・ムカジー(英語版)の人民党の秘書を1957年まで務めた。 その後、大衆連盟は国民会議派の反主流派や左翼・地方政党とジャナタ党を結成。ジャナタ党の選挙勝利でモラルジー・デーサーイー内閣が成立すると、情報・放送大臣を務める。
その後ジャナタ党が内部対立で瓦解すると、アードヴァーニーやアタル・ビハーリー・ヴァージペーイーなどが中心となりインド人民党を結成。1980年から1986年までインド人民党の書記長を勤めた。人民党のトップは3度務めた。1998年に人民党が勝利しヴァージペーイー内閣が成立すると、内相・副首相を務めた。人民党は2004年に下野しヴァージペーイーが人民党党首を辞すると、後任の党首に就任。党首在任時には本来のヒンドゥー至上主義を薄めて支持回復を図ったが、党勢の回復に繋がらず2009年に党首を辞した。現在は、グジャラート州ガンディーナガルでまた、候補として選挙を行っている。