「日興」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
→‎略歴: +{{年譜のみの経歴}}-CO,CO要出典
(+{{出典の明記}}-敬称(-上人),-敬語(お座りになられて御説法をされた->座って説法した),+{{誰2}},ce)
(→‎略歴: +{{年譜のみの経歴}}-CO,CO要出典)
[[ファイル:Sepoishi.jpg|サムネイル|(大石寺石の坊境内)大石寺開創までの間この上に日興は座って説法したと云われる{{誰2|date=2015年9月}}]]
== 略歴 ==
{{年譜のみの経歴|date=2015年9月30日 (水) 23:14 (UTC)}}
* [[寛元]]4年([[1246年]])3月8日、[[甲斐国]]大井庄鰍沢([[山梨県]][[富士川町]]鰍沢)で誕生。
* [[正嘉]]2年([[1258年]])、富士岩本の[[実相寺 (富士市)|実相寺]]へ入室。名を伯耆房と賜わる。2月、[[日蓮]]が『[[立正安国論]]』の執筆に際し[[大蔵経]]を閲覧するため岩本の実相寺へ入った折、弟子となった。
* [[弘長]]元年([[1261年]])5月12日、日蓮が[[伊豆国|伊豆]]に配流(伊豆流罪)され、日蓮正宗の文献『日興上人詳伝』によると、日興が同行して常随給仕をしたとされる<!--{{要出典範囲|([[日蓮宗]]では否定)|date=2015年9月}}-->。また伊豆[[伊東市|宇佐美]]・吉田の地を弘教した。
* 弘長2年([[1262年]])、熱海真言僧金剛院行満が、日興の[[折伏]]により改衣して日行と名乗り、自坊を大乗寺と号した(日興上人詳伝)。
* [[文永]]8年([[1271年]])10月10日、日蓮が相模依智本間邸を発し[[佐渡島|佐渡]]に向かった際(佐渡流罪)、日興が同行して常随給仕をしたとされる(日興上人詳伝)。
* 建治2年([[1276年]])4月8日、日目、伊豆走湯山円蔵坊において日興により得度。
* [[弘安]]2年([[1279年]])1月、興津時業、日興書写の法華経一部を請く。9月20日、日蓮、書を日興に与える。10月12日、日蓮、書を日興のほか、日秀・日弁等に報じ滝泉寺申状草案を与う。10月15日、日興等、鎌倉より日蓮に法難の状を急報する。10月17日、日蓮、書を日興はじめ日秀・日弁等に報ず。『三大秘法口決』を記す。日興に文永11年(1274年)12月の本尊〔万年救護本尊〕を与える。
* 弘安3年([[1280年]])1)<!--1月11日、日蓮より法華本門宗血脈相承『百六箇抄』<ref group="注釈" name="h" />を相伝す{{要出典|date=2015年9月}}。-->2月、日興、遠江の新池家に在り。
* 弘安4年([[1281年]])、日興、園城寺申状を代奏す〔初度天奏〕。
* 弘安5年([[1282年]])9月、日蓮は『日蓮一期弘法付嘱書』(身延相承)をもって日興を本門弘通の大導師と定め、10月13日、『身延山付嘱書』(池上相承)をもって身延山[[久遠寺]]の別当職(貫主)と定めて死去した、と日蓮正宗では主張している{{Sfn | 富士学林研究科 | 2006 | pp =5,7-8,12 | ps = -但し、前書をもって「滅後の大導師〔と定めた〕」とある。}}{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 181 | ps = -但し、両書の別名が身延相承・池上相承あることを除く。}}。その一方で、日蓮宗は、両書を宗祖滅後150年頃成立の偽書と位置付けて{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 185 }}{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 294 }}同主張を是としておらず<ref group="注釈">{{Harv | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 1315 }}に、身延山の開山は宗祖、2世は日向とある。</ref>、日興身延在山時代には、「日興は自身を院主、日向を学頭に当て〔た〕長老合議制」が敷かれていた、としている{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 650 }}。日蓮正宗では、両書をあわせて『[[二箇相承|二箇相承書]]』としている{{Sfn | 日蓮正宗宗務院 | 1999 | p = 230 }}。
* 正応2年(1289年)6月5日、富士河合の由比入道の家に逗留する。しばらくして駿河国上野郷の南条時光の館(現在の[[下之坊]])に逗留する{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 183a | ps = -但し、日付は除く。 }}。
* 正応3年([[1290年]])10月12日、[[南条時光]]の寄進により[[大石寺]]が建立し、翌日の10月13日、日興は日目に内々に法を付し{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 183b }}、大石寺学頭として、第三祖[[日目]]が一門の統率をした。同年、弟子らにより宿坊が建立された。
* 永仁6年([[1298年]])2月、足かけ10年過ごした大石寺を離れ、日興は重須談所(大石寺近郊、現在の[[北山本門寺]])に移った{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 185a }}。<!--
* [[延慶]]2年([[1309年]])『富士一跡門徒存知事』を記す{{要出典|date=2015年9月}}。
* [[嘉暦]]2年([[1328年]])『五人所破抄』を記す{{要出典|date=2015年9月}}。再度、[[日昭]]・[[日朗]]・[[日向 (日蓮宗)|日向]]・[[日頂]]・[[日持]]の行為が宗祖の本意ではないと主張{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 185 }}。-->
* [[正慶]]2年([[1333年]])1月13日、二十六箇条の『遺戒置文』をもって将来の指針を示し、2月7日、88歳をもって、35年に渡って住んだ重須にて死去した{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 187 }}{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 185b | ps = -但し、重須に35年に渡って住んだことのみ。}}{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 651a | ps = -但し、没年月日と享年ならびに重須にて死去したことのみ。}}。
 
=== 身延離山 ===
弘安5年(1282年)の宗祖滅後、日興は久遠寺の輪番を軸に駿河を中心として甲斐・伊豆方面を布教{{Sfn | 宮崎英修 | 1978 | p = 220 | ps = -但し、輪番を軸とすることを除く。}}{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 651b }}。同じく六老僧の一人[[日向 (日蓮宗) |日向]]や、日興の教化により入信したにも拘らず日向を師と選択した[[南部実長|波木井実長]]と対立した日興<ref>『原殿御返事』正応元年十二月十六日 日興筆。但し、波木井実長と日興に関することのみ。</ref>は、正応元年(1288年)身延の山を降りた{{Sfn | 日蓮宗事典刊行委員会 | 1981 | p = 651b }}{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 182 }}。この原因の一つに、波木井実長が<!--{{要出典範囲|宗祖の禁じた|date=2015年9月}}<!-- 四箇の謗法を宗祖が禁じたか否かについて、少なくとも『日蓮正宗入門』P.182には記載がありません。-->九品念仏の道場建立を行ったことが考えられている{{Sfn|宗旨建立750年慶祝記念出版委員会| 2002 | p = 182}}。
 
この際、日興が宗祖灰骨など一切を携えて下山したと日蓮正宗では主張している{{Sfn | 富士学林研究科 | 2006 | p = 156 }}{{Sfn | 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 | 2002 | p = 116 }}。その一方で、日蓮宗はこれに反駁を加えている{{Sfn | 日蓮宗現代宗教研究所 | 2006 | pp = 68-82}}。
1,383

回編集

案内メニュー