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==生涯==
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父ヴァシリコの所有していたヴォルィーニ公位を得た後、ヤトヴャギ族[[:ru:Ятвяги|(ru)]]との戦いを始めた<ref>Владимир (русские князья) // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона([[ブロックハウス・エフロン百科事典]]) : в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.</ref>。1270年代に[[カメネツ]]の街と城[[:ru:Каменецкая башня|(ru)]]を建設した。数度に渡るヤトヴャギ族との戦いを繰り広げる一方、1279年の飢饉の年にはヤトヴァギ族への[[穀物]]の販売を行った。[[ジョチ・ウルス]]は東欧諸国への遠征(1277年にリトアニア、1283年、1286年にポーランド、1285年にハンガリー)への参加を強要したが、[[跛行]]を理由としてこれに参加しなかった。
父ヴァシリコの所有していたヴォルィーニ公位を得た後、ヤトヴャギ族[[:ru:Ятвяги|(ru)]]との戦いを始めた<ref>Владимир (русские князья) // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона([[ブロックハウス・エフロン百科事典]]) : в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.</ref>。1270年代に[[カメネツ]]の街と城[[:ru:Каменецкая башня|(ru)]]を建設した。数度に渡るヤトヴャギ族との戦いを繰り広げる一方、[[1279年]]の飢饉の年にはヤトヴァギ族への[[穀物]]の販売を行った。[[ジョチ・ウルス]]は東欧諸国への遠征(1277年にリトアニア、1283年、1286年にポーランド、1285年にハンガリー)への参加を強要したが、[[跛行]]を理由としてこれに参加しなかった。


ウラジーミルは1288年の末に死亡した。『イパーチー写本』の1288年の項では、書物を愛する教養のある人物と記されている。ウラジーミルには相続人がなく、その所領全てを[[ルーツク公]][[ムスチスラフ・ダニーロヴィチ|ムスチスラフ]]に寄贈した。
ウラジーミルは1288年の末に死亡した。『イパーチー写本』の1288年の項では、書物を愛する教養のある人物と記されている。ウラジーミルには相続人がなく、その所領全てを[[ルーツク公]][[ムスチスラフ・ダニーロヴィチ|ムスチスラフ]]に寄贈した。

2015年9月20日 (日) 08:45時点における版

ウラジーミル・ヴァシリコヴィチロシア語: Владимир Василькович、1249年/1250年 - 1288年12月10日)はヴォルィーニ公ヴァシリコと1人めの妻ドブラヴァとの間の子である。ヴォルィーニ公:1269年 - 1288年。聖名イヴァン。

生涯

父ヴァシリコの所有していたヴォルィーニ公位を得た後、ヤトヴャギ族(ru)との戦いを始めた[1]。1270年代にカメネツの街と城(ru)を建設した。数度に渡るヤトヴャギ族との戦いを繰り広げる一方、1279年の飢饉の年にはヤトヴァギ族への穀物の販売を行った。ジョチ・ウルスは東欧諸国への遠征(1277年にリトアニア、1283年、1286年にポーランド、1285年にハンガリー)への参加を強要したが、跛行を理由としてこれに参加しなかった。

ウラジーミルは1288年の末に死亡した。『イパーチー写本』の1288年の項では、書物を愛する教養のある人物と記されている。ウラジーミルには相続人がなく、その所領全てをルーツク公ムスチスラフに寄贈した。

出典

  1. ^ Владимир (русские князья) // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона(ブロックハウス・エフロン百科事典) : в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.

参考文献