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'''ダン池田'''(だん いけだ、本名・池田 啓助、[[1935年]][[4月11日]]- [[2007年]][[12月25日]])は、[[日本]]の[[バンドマスター]]・ラテンパーカッション奏者・[[指揮者]]・[[タレント]]。
'''ダン池田'''(だん いけだ、本名・'''池田 啓助'''、[[1935年]][[4月11日]]- [[2007年]][[12月25日]])は、[[日本]]の[[バンドマスター]]・ラテンパーカッション奏者・[[指揮者]]・[[タレント]]。


== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==

2015年9月6日 (日) 06:21時点における版

ダン 池田
出生名 池田 啓助
生誕 1935年4月11日
出身地 大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮京城府生まれ
日本の旗 日本北海道留萌市育ち
死没 (2007-12-25) 2007年12月25日(72歳没)
埼玉県
学歴 中央大学経済学部(中退)
職業 バンドマスター
メンバー ダン池田とニューブリード

ダン池田(だん いけだ、本名・池田 啓助1935年4月11日- 2007年12月25日)は、日本バンドマスター・ラテンパーカッション奏者・指揮者タレント

来歴・人物

1935年4月11日、旧朝鮮京城(現ソウル)生まれ、終戦と同時に日本へ引き揚げた日本人である[1]

芸名の「ダン」は、生徒会長を務めていた高校時代、好きな女子と手を繋ぎたいがためにフォークダンスを開催し、「ダンス」と「啓助」をつなげた「ダン助」というあだ名がついたことに由来するという。

留萌高等学校を経て長野県松代高等学校卒業、中央大学経済学部を中退している。

中央大学在学中からプロのバンド活動を開始。その後、事務員を務めていた。

1969年、「ダン池田とニューブリード」を結成し、フジテレビ系「夜のヒットスタジオ」のカラー放送開始と同時に専属のバンドとして番組に抜擢される。

以後、夜ヒットと同じくフジテレビ系の「オールスター家族対抗歌合戦」・「スターどっきり報告」・「オールスター水泳大会」、「ズバリ!当てましょう」(第2期のステレオ放送開始以降)、NHKの「ひるのプレゼント」など主にフジテレビ・NHKの音楽番組を中心に活躍(フジの専属契約のため紅白を除きザ・ベストテン等には出演していない)。

NHK紅白歌合戦」では1972年1984年まで指揮者を務めた(尚、1974年のみは原信夫とシャープス&フラッツが演奏を担当したため、10回紅組の指揮を担当した。1983年から紅白でバンドが分かれなくなり1983年・1984年は両軍の演奏を担当した)。

1985年3月25日に月曜日放送の1時間版の「夜のヒットスタジオ」が最終回を迎えたのを区切りに夜のヒットスタジオのみ卒業。他の番組などでは、ニューブリードのバンドマスターを継続していた。 同年11月に『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』(第1弾・第2弾)をはまの出版から出版。本書は自身の1年間分の日記をまとめたものだが、70万部のベストセラーになった一方で、タイトルに見て取れる通り、芸能界に対して辛辣な表現もあったことから暴露本と騒がれ、ニューブリードのバンドマスターを継続するのが困難と判断し、元ブルーコメッツ小田啓義に交代した。同バンドは、さらに同じくブルーコメッツの三原綱木にバンドマスターを交代した際、「ザ・ニューブリード」に名称を変更、2014年現在も「NHK歌謡コンサート」や「NHK紅白歌合戦」、「NHKのど自慢チャンピオン大会」などで活躍中である。

晩年の池田には単発での仕事しかなくなり、芸能事務所を設立してデュオの演歌歌手をデビューさせたが失敗。表舞台に出る機会が減っていった。

1990年代以降は懐かしの映像で「夜のヒットスタジオ」の映像が流れたり、単発で「あの人は今!?」等の番組に出演したりした以外、ダン池田の映像を見る機会がなくなった。

1997年当時、埼玉県で開業した「ダン池田の店」でマスターをつとめていた。

2007年12月25日、急性呼吸不全のため死去。享年72。近親者のみで密葬を済ませ、「故人の遺志で静かに眠らせてあげたかった」との遺族の意向から、訃報は死去から約2カ月後の2008年2月21日に公表された。

脚注

  1. ^ 留萌が産んだ著名人、有名人