「近藤秀用」の版間の差分

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父の康用は[[永禄]]11年([[1568年]])末、[[徳川家康]]の遠州攻め入りで[[今川氏]]方を離反した[[井伊谷三人衆]]の一人として知られる。老齢や戦傷を負い歩行困難であった父に代わって秀用が戦役を担っていた。秀用は[[姉川の戦い]]、[[三方ヶ原の戦い]]、[[小田原征伐]]などでいずれも軍功を挙げ、特に小田原征伐では[[豊臣秀吉]]からも賞賛された。
父の康用は[[永禄]]11年([[1568年]])末、[[徳川家康]]の遠州攻め入りで[[今川氏]]方を離反した[[井伊谷三人衆]]の一人として知られる。老齢や戦傷を負い歩行困難であった父に代わって秀用が戦役を担っていた。秀用は[[姉川の戦い]]、[[三方ヶ原の戦い]]、[[小田原征伐]]などでいずれも軍功を挙げ、特に小田原征伐では[[豊臣秀吉]]からも賞賛された。


やがて、[[徳川四天王]]で知られる[[井伊直政]]が台頭してくると、家康の下命で寄騎として直政の片腕となった。しかし、直政の冷酷な性格に嫌気がさした秀用は、それまでの功績から家康に直臣として取り立ててくれるように嘆願したが、直政に徹底してそれを妨害された。遂には暗殺まで謀られたため、秀用は命の危険から逃れるために出奔して[[伊勢国]]に逃亡した。
やがて、[[徳川四天王]]で知られる[[井伊直政]]が台頭してくると、家康の下命で寄騎として直政の片腕となった。しかし、直政の冷酷な性格に嫌気がさした秀用は、それまでの功績から家康に直臣として取り立ててくれるように嘆願したが、直政に徹底してそれを妨害された。遂には暗殺まで謀られたため、秀用は命の危険から逃れるために出奔して[[伊勢国]]に逃亡した。なお、近年の研究によれば、初期の井伊家の重臣の人事は家康が直接関与しており、当主・直政以下の井伊家側は家康の許可なく勝手な人事はできなかった(家康は基盤の弱い井伊家を強化するために直政付の家臣を井伊家の家臣に編入する方針があったと考えられている)。そのため、秀用は家康の許可が得られないまま井伊家を離れ、それが家康に対する反抗とみなされたとする<ref>小宮山敏和「井伊直政家臣団の形成と徳川家中での地位」(初出:『学習院史学』40号(2002年)/所収:小宮山『譜代大名の創出と幕藩体制』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-03468-5)</ref>


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[[慶長]]7年([[1602年]])、直政が死去すると、[[徳川秀忠]]は秀用を召し出して、[[上野国]]青柳に5000石の所領を与えられた。翌慶長8年([[1603年]])になって[[池田輝政]]の仲介によって、ようやく家康の勘気が解かれた。慶長19年([[1614年]])には[[相模国]]内で1万石を加増され、[[小田原城]]の城番となる。[[大坂の陣]]にも参陣して武功を挙げ、[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])に遠州[[引佐郡]]井伊谷へ転封、1万5000石の大名として井伊谷藩を立藩した。元和7年([[1621年]])には2000石の加増を受けている。


しかし所領を子の[[近藤季用|季用]]、[[近藤用可|用可]]、[[近藤用義|用義]]たちに分け与えて細分化したため、[[井伊谷藩]]は秀用1代で終焉した。その後の近藤氏は[[旗本]]として徳川氏に仕えることとなった。
しかし所領を子の[[近藤季用|季用]]、[[近藤用可|用可]]、[[近藤用義|用義]]たちに分け与えて細分化したため、[[井伊谷藩]]は秀用1代で終焉した。その後の近藤氏は[[旗本]]として徳川氏に仕えることとなった。
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なお、その後の秀用は寛永2年([[1625年]])に石見守に叙任されている。寛永8年([[1631年]])2月6日、85歳で死去した。墓所は[[東京都]][[文京区]]本郷の大安寺。
なお、その後の秀用は寛永2年([[1625年]])に石見守に叙任されている。寛永8年([[1631年]])2月6日、85歳で死去した。墓所は[[東京都]][[文京区]]本郷の大安寺。


== 脚注 ==
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2015年7月26日 (日) 05:31時点における版

近藤 秀用(こんどう ひでもち、天文16年(1547年) - 寛永8年2月6日1631年3月8日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名遠江井伊谷藩の藩主。近藤康用の子。通称は勘助、登助、平右衛門。官位は従五位下、石見守。弟妹に用豊、用成、用忠、用政、中野三信(井伊掃部頭家臣)の妻、近藤用勝(徳川頼宣家臣)、中川忠重の妻。子に季用用可用宗用義、米倉某の妻、小笠原権之丞室(のちに九鬼長兵衛の妻)、由良貞繁室。

経歴

父の康用は永禄11年(1568年)末、徳川家康の遠州攻め入りで今川氏方を離反した井伊谷三人衆の一人として知られる。老齢や戦傷を負い歩行困難であった父に代わって秀用が戦役を担っていた。秀用は姉川の戦い三方ヶ原の戦い小田原征伐などでいずれも軍功を挙げ、特に小田原征伐では豊臣秀吉からも賞賛された。

やがて、徳川四天王で知られる井伊直政が台頭してくると、家康の下命で寄騎として直政の片腕となった。しかし、直政の冷酷な性格に嫌気がさした秀用は、それまでの功績から家康に直臣として取り立ててくれるように嘆願したが、直政に徹底してそれを妨害された。遂には暗殺まで謀られたため、秀用は命の危険から逃れるために出奔して伊勢国に逃亡した。なお、近年の研究によれば、初期の井伊家の重臣の人事は家康が直接関与しており、当主・直政以下の井伊家側は家康の許可なく勝手な人事はできなかった(家康は基盤の弱い井伊家を強化するために直政付の家臣を井伊家の家臣に編入する方針があったと考えられている)。そのため、秀用は家康の許可が得られないまま井伊家を離れ、それが家康に対する反抗とみなされたとする[1]

慶長7年(1602年)、直政が死去すると、徳川秀忠は秀用を召し出して、上野国青柳に5000石の所領を与えられた。翌慶長8年(1603年)になって池田輝政の仲介によって、ようやく家康の勘気が解かれた。慶長19年(1614年)には相模国内で1万石を加増され、小田原城の城番となる。大坂の陣にも参陣して武功を挙げ、元和5年(1619年)に遠州引佐郡井伊谷へ転封、1万5000石の大名として井伊谷藩を立藩した。元和7年(1621年)には2000石の加増を受けている。

しかし所領を子の季用用可用義たちに分け与えて細分化したため、井伊谷藩は秀用1代で終焉した。その後の近藤氏は旗本として徳川氏に仕えることとなった。

なお、その後の秀用は寛永2年(1625年)に石見守に叙任されている。寛永8年(1631年)2月6日、85歳で死去した。墓所は東京都文京区本郷の大安寺。

脚注

  1. ^ 小宮山敏和「井伊直政家臣団の形成と徳川家中での地位」(初出:『学習院史学』40号(2002年)/所収:小宮山『譜代大名の創出と幕藩体制』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-03468-5