「岩倉城 (伯耆国)」の版間の差分
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{{日本の城郭概要表 |
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{| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" align="right" |
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|name =岩倉城 |
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|pref =鳥取県 |
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|bgcolor=#eeeeee|'''所在地'''||[[鳥取県]][[倉吉市]]岩倉 |
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|img_capt =二の郭跡 |
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|bgcolor=#eeeeee|'''城郭構造'''|| |
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|struct = <!-- 城郭構造 --> |
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|bgcolor=#eeeeee|'''築城主'''||[[小鴨元兼]] |
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|tower_struct = <!-- 天守構造 --> |
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|rulers =[[小鴨氏]] |
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|reject_y =[[慶長]]5年 |
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|bgcolor=#eeeeee|'''主な城主'''||[[小鴨氏]] |
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|remains = <!-- 遺構 --> |
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|cultural asset = <!-- 指定文化財 --> |
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|bgcolor=#eeeeee|'''廃城年'''||[[慶長]]5年 |
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|rebuilding things = <!-- 再建造物 --> |
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| latd = |latm = |lats = <!-- 緯度 --> |
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| longd = |longm = |longs = <!-- 経度 --> |
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[[画像:Iwakurajou001.jpg|thumb|right|260px|二の郭跡]] |
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'''岩倉城'''( |
'''岩倉城'''(いわくらじょう)は、[[鳥取県]][[倉吉市]]岩倉にある中世の[[日本の城]]([[山城|山城跡]])跡。標高247mの岩倉山に所在し、岩倉山城とも記される。 |
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==概要== |
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鎌倉時代に[[小鴨氏]]により築城され、[[小鴨氏]]歴代の居城と伝わる。小鴨氏は少なくとも[[平安時代]]末期にまでさかのぼる一族であり、古代は伯耆国衙の[[在庁官人]]を務め、「介」を名乗る家柄であった。鎌倉・室町と代々[[守護代]]を務め、[[室町時代]]には[[守護]]・[[山名氏]]の下で重用されたが、山名氏衰退と同時に勢力も衰えていった。 |
鎌倉時代に[[小鴨氏]]により築城され、[[小鴨氏]]歴代の居城と伝わる。小鴨氏は少なくとも[[平安時代]]末期にまでさかのぼる一族であり、古代は伯耆国衙の[[在庁官人]]を務め、「介」を名乗る家柄であった。鎌倉・室町と代々[[守護代]]を務め、[[室町時代]]には[[守護]]・[[山名氏]]の下で重用されたが、山名氏衰退と同時に勢力も衰えていった。 |
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2015年6月10日 (水) 19:30時点における版
岩倉城 (鳥取県) | |
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二の郭跡 | |
別名 | 岩倉山城 |
築城主 | 小鴨元兼 |
主な城主 | 小鴨氏 |
廃城年 | 慶長5年 |
岩倉城(いわくらじょう)は、鳥取県倉吉市岩倉にある中世の日本の城(山城跡)跡。標高247mの岩倉山に所在し、岩倉山城とも記される。
概要
鎌倉時代に小鴨氏により築城され、小鴨氏歴代の居城と伝わる。小鴨氏は少なくとも平安時代末期にまでさかのぼる一族であり、古代は伯耆国衙の在庁官人を務め、「介」を名乗る家柄であった。鎌倉・室町と代々守護代を務め、室町時代には守護・山名氏の下で重用されたが、山名氏衰退と同時に勢力も衰えていった。
大永4年(1524年)、尼子氏の伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)により落城。(但し、五月崩れの存在は現在では否定されている)永禄5年(1562年)、毛利氏を頼った小鴨氏は旧領を回復し、南条氏の家臣団に組み込まれた。その前後に南条宗勝の二男・南条元清が家督を継承したとみられる。
しかし天正7年(1579年)小鴨元清は実兄の南条元続らと共に毛利氏を離反し織田氏に帰属。毛利氏は吉川元長を派遣し、圧倒的な軍勢をもって岩倉城に攻撃をしかけたが、南条氏らの協力を得てこれを退けた。しかし、毛利氏の包囲は狭められ、攻撃も一段と激しくなり、天正10年(1582年)9月~10月にかけて落城した。城主・小鴨元清は南条元続らと京都もしくは播州に逃れたとされる。
天正12年(1584年)頃にかけて所謂京芸和睦により、城を回復したと見られるが、その後の詳細は不明である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで主家の南条氏が西軍に属し、改易されたことにより廃城となった。
『伯耆民諺記』によると永禄12年(1569年)尼子勝久ら尼子再興軍に、天正8年(1580年)吉川元春に、同10年(1582年)吉川元長に攻められる、激戦地となった。
中村一忠の米子城時代に廃城となり、城下の人たちが米子に移住したところが岩倉町である。