「シク王国」の版間の差分

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ムガル帝国はアウラングゼーブの時代に最大版図を形成したが、その晩年に帝国は分裂の傾向が強まった。アウラングゼーブの死後、18世紀には短命な皇帝と内紛が相次いで、帝国は急速に衰退した。
 
一方、シク教徒らはゴーヴィンド・シングの死後、[[バンダー・シング・バハードゥル]]に率いられ反乱を起こしたが、[[1716年]][[6月19日]]に帝国により処刑された。
 
さらには、[[1740年]]以降、アフガン勢力[[ドゥッラーニー朝]]の王[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]が北インド一帯に遠征し、破壊や略奪によりパンジャーブ一帯は混乱に陥った<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.228</ref>。
 
そうした中でも、[[1764年]]にシク教徒はムガル帝国から宣言し、この過程でシク教徒の軍団は12のミスルに分かれ、それらのシク首長は各地に城塞を築き、事実上パンジャーブを支配した。
 
だが18世紀末になると、ミスル間で対立が起こり、[[1798年]][[11月]]にはアフガン勢力がパンジャーブに侵入し、ラホールなどを占拠し、拠点たるアムリトサルにまで迫った<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.283</ref><ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.246</ref>。
 
=== シク王国の創始と王国の繁栄===
 
===シク王国の後継者争い===
[[File:Duleep Singh00.jpg |thumb|right|250px200px|[[ドゥリープ・シング]]]]
ランジート・シングの晩年、シク王国は北西インドにまたがる大帝国となっていた。彼は外交戦略と軍事力によってイギリスの支配を排し、19世紀においてマラーター同盟が滅亡したのちも、王国はインドで唯一の独立国としての地位を保持した。
 
こうして、[[1843年]][[9月]]にランジート・シングの末の息子[[ドゥリープ・シング]]に王位が渡ったが<ref>[http://www.royalark.net/India4/lahore4.htm Lahore 4]</ref>、まだ5歳の少年であり、一連の内乱で台頭した[[カールサー]]と呼ばれると強力な軍団が政権を握っていた<ref>チョプラ『インド史』、p.171</ref>。
 
===シク戦争と王国の領土併合===
[[File:Bataille de Sobraon.jpg|thumb|[[ソブラーオンの戦い]]([[第一次シク戦争]])]]
カールサーは愛国的で勇敢であったが、全く統制のとれていない軍隊であった<ref>チョプラ『インド史』、p.171</ref>。その結果、1809年にランジート・シングと不可侵条約を結んだイギリスはそれが忠実に守られていたにもかかわらず、シク王国の広大な領土に目を向けるようになった。
 
==歴代君主==
*[[ランジート・シング]](在位:1801年 - 1839年)
*[[カラク・シング]](在位:1839年)
*[[ナーウ・ニハール・シング]] (在位:1839年 - 1840年)
*[[チャーンド・カウル]] (摂政、在位:1840年 - 1841年)
*[[シェール・シング]] (在位:1841年 - 1843年)
*[[ドゥリープ・シング]] (在位:1843年 - 1849年)
 
== 参考文献 ==

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