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[[平安京]][[遷都]]後は放棄され、農地となっていた。明治時代に建築史家、[[関野貞]]が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿の基壇であることを発見、'''平城宮跡'''(へいじょうきゅうせき)は後に国の[[史跡]]に指定された(現在[[特別史跡]])。
[[平安京]][[遷都]]後は放棄され、農地となっていた。明治時代に建築史家、[[関野貞]]が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿の基壇であることを発見、'''平城宮跡'''(へいじょうきゅうせき)は後に国の[[史跡]]に指定された(現在[[特別史跡]])。


なお、[[唐招提寺]]の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。切妻屋根を入母屋にしたり、[[鎌倉時代]]の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である。
なお、[[唐招提寺]]の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。[[切妻造|切妻屋根]]を入母屋にしたり、[[鎌倉時代]]の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である。


現在、平城宮跡では発掘成果に基づき、朱雀門(1998年竣工)や庭園などが復元されている。現在はもっとも重要な建物である[[太極殿|大極殿]]が復元中である。1998年12月、「[[古都奈良の文化財]]」として[[東大寺]]などと共に[[世界遺産]]に選定された。(考古遺跡としては日本初)
現在、平城宮跡では発掘成果に基づき、朱雀門(1998年竣工)や庭園などが復元されている。現在はもっとも重要な建物である[[太極殿|大極殿]]が復元中である。1998年12月、「[[古都奈良の文化財]]」として[[東大寺]]などと共に[[世界遺産]]に選定された。(考古遺跡としては日本初)

2006年4月30日 (日) 07:23時点における版

朱雀門(復元)

平城宮(へいじょうきゅう)は710年に遷都した平城京の大内裏。平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙(役所)から成り、約120haを占めていた。

平安京遷都後は放棄され、農地となっていた。明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿の基壇であることを発見、平城宮跡(へいじょうきゅうせき)は後に国の史跡に指定された(現在特別史跡)。

なお、唐招提寺の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。切妻屋根を入母屋にしたり、鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である。

現在、平城宮跡では発掘成果に基づき、朱雀門(1998年竣工)や庭園などが復元されている。現在はもっとも重要な建物である大極殿が復元中である。1998年12月、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産に選定された。(考古遺跡としては日本初)

関連項目

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