「ヴォルグ・ザンギエフ」の版間の差分

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貧しい[[母子家庭]]に育ち、母親を守るために強くなろうと幼い頃にボクシングを始め、専属コーチであるルスラン・ラムダの下、アマチュア[[ボクシング]][[フェザー級]]世界チャンピオンに上り詰めた。アマチュアでは200戦以上の経験がある。
貧しい[[母子家庭]]に育ち、母親を守るために強くなろうと幼い頃にボクシングを始め、専属コーチであるルスラン・ラムダの下、アマチュア[[ボクシング]][[フェザー級]]世界チャンピオンに上り詰めた。アマチュアでは200戦以上の経験がある。


ソ連崩壊後、病気の母の治療費を稼ぐためにプロに転向し、ラムダと共に来日し音羽ジムと契約、期待の新人輸入ボクサーとして注目を浴びる。A級ボクサー賞金トーナメント決勝戦で[[幕之内一歩]]と対戦し、壮絶な打撃戦を比較的優位に展開していたが、アマ時代には経験したことのなかった長丁場の緊張感にスタミナを失って流れが変わり、最後はガゼルパンチでKOされた。その後、[[伊達英二]]が返上した日本フェザー級王座決定戦に日本フェザー級2位として出場し、1位の[[千堂武士]]と対戦。終始優勢に試合を進めるも、バランスを崩してスリップしたときに僅かに攻撃が掠った事がダウンとみなされ、辛口のジャッジによ判定負けを喫した<ref>形式的にダウンと認められるが、宮田は「納得がいかないのも無理はない」と同情していた。</ref>。この連敗によって音羽ジムから解雇され引退、一歩に愛用のグローブを託し、ロシアへと帰国した。
ソ連崩壊後、病気の母の治療費を稼ぐためにプロに転向し、ラムダと共に来日し音羽ジムと契約、期待の新人輸入ボクサーとして注目を浴びる。A級ボクサー賞金トーナメント決勝戦で[[幕之内一歩]]と対戦し、壮絶な打撃戦を比較的優位に展開していたが、アマ時代には経験したことのなかった長丁場の緊張感にスタミナを失って流れが変わり、最後はガゼルパンチでKOされた。その後、[[伊達英二]]が返上した日本フェザー級王座決定戦に日本フェザー級2位として出場し、1位の[[千堂武士]]と対戦。終始優勢に試合を進めるも、バランスを崩してスリップしたときに僅かに攻撃が掠った事がダウンとみなされ、シビアなジャッジによ判定負けを喫した<ref>形式的にダウンと認められるが、宮田は「納得がいかないのも無理はない」と同情していた。</ref>。この連敗によって音羽ジムから解雇され引退、一歩に愛用のグローブを託し、ロシアへと帰国した。


それから数年間ボクシングの表舞台から遠ざかっていたが、最愛の母の死をきっかけに[[アメリカ合衆国]]でのカムバックを決意。一歩のつてを頼るべく単身再来日し、一歩の家で寝泊りしながら鴨川ジムで再起に向けたトレーニングを行った。[[鴨川源二|鴨川会長]]の口利きで出国が決定した後、[[沢村竜平]]戦を控えていた一歩のスパーリングパートナーとなり、置き土産にデンプシー破りを実践して一歩をKO、アメリカに活動拠点を移していた浜団吉のもとへ旅立っていった。
それから数年間ボクシングの表舞台から遠ざかっていたが、最愛の母の死をきっかけに[[アメリカ合衆国]]でのカムバックを決意。一歩のつてを頼るべく単身再来日し、一歩の家で寝泊りしながら鴨川ジムで再起に向けたトレーニングを行った。[[鴨川源二|鴨川会長]]の口利きで出国が決定した後、[[沢村竜平]]戦を控えていた一歩のスパーリングパートナーとなり、置き土産にデンプシー破りを実践して一歩をKO、アメリカに活動拠点を移していた浜団吉のもとへ旅立っていった。
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リングの上では「野生」と形容されるほどの獰猛さを見せるが、普段は純朴で温厚な心優しい青年で、境遇・性格が似ている一歩と個人的に友情を築いている。故郷では夜に部屋の灯りを点ける習慣が無かったため、ロシアを離れた後も自室には灯りを点けていない。かなりの方向音痴で、日本では土地勘がないこともあって道に迷う場面が多かった。ロシア語、日本語、英語の三ヶ国語を話せる(ただし漢字は読めないため駅で一歩と出会ったとき駅の看板が読めないといってる)。
リングの上では「野生」と形容されるほどの獰猛さを見せるが、普段は純朴で温厚な心優しい青年で、境遇・性格が似ている一歩と個人的に友情を築いている。故郷では夜に部屋の灯りを点ける習慣が無かったため、ロシアを離れた後も自室には灯りを点けていない。かなりの方向音痴で、日本では土地勘がないこともあって道に迷う場面が多かった。ロシア語、日本語、英語の三ヶ国語を話せる(ただし漢字は読めないため駅で一歩と出会ったとき駅の看板が読めないといってる)。


日本時代は観客を惹きつけるためインファイターとして戦っており、その獰猛さに見合った力強いファイトスタイルを見せていた。しかし本来は、高度な戦略を駆使する優れた頭脳と、それを的確に実行できる正確無比なテクニックを併せ持つ万能型のボクサーファイターで、作中でも言われていた、ボクサーとして極めるべき個性の、野性(暴力性)と科学性(洗練された技術)を見事に兼ね備えており、そのスタイルで戦っていたら当時の日本王者だった伊達ですら敗北していたかもしれないと鴨川会長に評されている。実際に、日本において本来のスタイルで一歩とスパーリングした際には、ブランクによって体力が切れるまでは圧倒的優勢に試合を運んでいた。
日本時代は観客を惹きつけるためインファイターとして戦っており、その獰猛さに見合った力強いファイトスタイルを見せていた。しかし本来は、高度な戦略を駆使する優れた頭脳と、それを的確に実行できる正確無比なテクニックを併せ持つ万能型のボクサーファイターで、作中でも言われていた、ボクサーとして極めるべき個性の、野性(暴力性)と科学性(洗練された技術)を兼ね備えており、そのスタイルで戦っていたら当時の日本王者だった伊達ですら敗北していたかもしれないと鴨川会長に評されている。実際に、日本において本来のスタイルで一歩とスパーリングした際には、ブランクによって体力が切れるまでは圧倒的優勢に試合を運んでいた。


病弱な母を守るための「手段」としてボクシングを始めたこと、母親が暴力を極めて嫌っていたため大会を制覇するなどしても褒められることがなかったことなどから、かつてはボクサーとしての自分を嫌っていた様子が見られたが、一歩戦を機に自分が心からボクシングを愛していることに気が付いた。カムバックの地としてアメリカを選んだのは、ロシア人である自分にとって最も厳しい国で、自分の想いがどれだけ強いのかを試すためだったとしている。一歩・千堂との対戦経験が、自身のボクサー人生にとって重要な位置づけになっていると語っている。
病弱な母を守るための「手段」としてボクシングを始めたこと、母親が暴力を極めて嫌っていたため大会を制覇するなどしても褒められることがなかったことなどから、かつてはボクサーとしての自分を嫌っていた様子が見られたが、一歩戦を機に自分が心からボクシングを愛していることに気が付いた。カムバックの地としてアメリカを選んだのは、ロシア人である自分にとって最も厳しい国で、自分の想いがどれだけ強いのかを試すためだったとしている。一歩・千堂との対戦経験が、自身のボクサー人生にとって重要な位置づけになっていると語っている。

2015年1月8日 (木) 02:36時点における版

はじめの一歩 > はじめの一歩の登場人物 > ヴォルグ・ザンギエフ

ヴォルグ・ザンギエフは、森川ジョージの漫画作品およびそれを原作とするアニメ『はじめの一歩』に登場する架空の人物。アニメ版での声優森川智之、少年時代は瀧本富士子。ドラマCD版では中原茂

来歴

フルネームは、アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフ。旧ソビエト連邦出身。生年月日は1972年10月30日。身長168cm。リーチ173cm。血液型はO型。現IBF世界ジュニアライト級チャンピオン。

貧しい母子家庭に育ち、母親を守るために強くなろうと幼い頃にボクシングを始め、専属コーチであるルスラン・ラムダの下、アマチュアボクシングフェザー級世界チャンピオンに上り詰めた。アマチュアでは200戦以上の経験がある。

ソ連崩壊後、病気の母の治療費を稼ぐためにプロに転向し、ラムダと共に来日し音羽ジムと契約、期待の新人輸入ボクサーとして注目を浴びる。A級ボクサー賞金トーナメント決勝戦で幕之内一歩と対戦し、壮絶な打撃戦を比較的優位に展開していたが、アマ時代には経験したことのなかった長丁場の緊張感にスタミナを失って流れが変わり、最後はガゼルパンチでKOされた。その後、伊達英二が返上した日本フェザー級王座決定戦に日本フェザー級2位として出場し、1位の千堂武士と対戦。終始優勢に試合を進めるも、バランスを崩してスリップしたときに僅かに攻撃が掠った事がダウンとみなされ、シビアなジャッジによる判定負けを喫した[1]。この連敗によって音羽ジムから解雇され引退、一歩に愛用のグローブを託し、ロシアへと帰国した。

それから数年間ボクシングの表舞台から遠ざかっていたが、最愛の母の死をきっかけにアメリカ合衆国でのカムバックを決意。一歩のつてを頼るべく単身再来日し、一歩の家で寝泊りしながら鴨川ジムで再起に向けたトレーニングを行った。鴨川会長の口利きで出国が決定した後、沢村竜平戦を控えていた一歩のスパーリングパートナーとなり、置き土産にデンプシー破りを実践して一歩をKO、アメリカに活動拠点を移していた浜団吉のもとへ旅立っていった。

渡米後は階級をジュニアライト級に上げ、日本での失敗を取り返すべく数多の激戦を勝ち抜き、WBAWBC・IBFの3団体で同時に世界ランキング1位を獲得。しかし、あまりに強過ぎる事などから王者達のみならずプロモーターからも敬遠され、「無冠の帝王」と呼ばれていた。そんな折、IBF王者マイク・エリオットから、負傷により出場辞退した防衛戦の相手の代役として対戦を申しこまれ、準備期間がわずか1週間しかないにも関わらず要請を快諾する。

当日の試合では、試合開始直後に放ったホワイトファングにカウンターを合わせられダウンを奪われるも、それまで使う必要がなかったため封印していた飛燕を用いてエリオットを牽制し、ピンチを凌ぐ。ダメージから回復し試合勘を取り戻した後は、観客席にも緊張が走るほどの頭脳戦を展開、やがて調整不足の影響でスタミナが切れかかりチアノーゼに陥るまで追い込まれるが、幾重にも張り巡らせた伏線の末に燕返しからのホワイトファングを叩き込み、意識を断ち切る程の強烈なダウンを与える。本来ならこれでKO勝ちになるはずだったが、エリオット陣営のセコンドに買収されていたレフェリーによってエリオットが助け起こされ、試合再開となってしまう。これに対して抗議することなく再び試合に臨み、最後は本能に身を任せ正面から打ち合って再度マットに沈め、新世界王者となった。勝利者インタビューでは、アメリカ合衆国に対して英語で、日本の友に対して日本語で、亡き母に対してロシア語でそれぞれ感謝の言葉を述べた。

人物

リングの上では「野生」と形容されるほどの獰猛さを見せるが、普段は純朴で温厚な心優しい青年で、境遇・性格が似ている一歩と個人的に友情を築いている。故郷では夜に部屋の灯りを点ける習慣が無かったため、ロシアを離れた後も自室には灯りを点けていない。かなりの方向音痴で、日本では土地勘がないこともあって道に迷う場面が多かった。ロシア語、日本語、英語の三ヶ国語を話せる(ただし漢字は読めないため駅で一歩と出会ったとき駅の看板が読めないといってる)。

日本時代は観客を惹きつけるためインファイターとして戦っており、その獰猛さに見合った力強いファイトスタイルを見せていた。しかし本来は、高度な戦略を駆使する優れた頭脳と、それを的確に実行できる正確無比なテクニックを併せ持つ万能型のボクサーファイターで、作中でも言われていた、ボクサーとして極めるべき個性の、野性(暴力性)と科学性(洗練された技術)を兼ね備えており、そのスタイルで戦っていたら当時の日本王者だった伊達ですら敗北していたかもしれないと鴨川会長に評されている。実際に、日本において本来のスタイルで一歩とスパーリングした際には、ブランクによって体力が切れるまでは圧倒的優勢に試合を運んでいた。

病弱な母を守るための「手段」としてボクシングを始めたこと、母親が暴力を極めて嫌っていたため大会を制覇するなどしても褒められることがなかったことなどから、かつてはボクサーとしての自分を嫌っていた様子が見られたが、一歩戦を機に自分が心からボクシングを愛していることに気が付いた。カムバックの地としてアメリカを選んだのは、ロシア人である自分にとって最も厳しい国で、自分の想いがどれだけ強いのかを試すためだったとしている。一歩・千堂との対戦経験が、自身のボクサー人生にとって重要な位置づけになっていると語っている。

ヴォルグとは、ロシア語で狼の意。モデルは勇利アルバチャコフ[2]

得意技

白い牙(ホワイト・ファング)
左アッパーとチョッピング・ライトの高速コンビネーション。が上下の牙で噛みつく様子になぞらえられている。
一歩戦では左右を逆にして、エリオット戦では飛燕・燕返しと組み合わせて用いられた。
デンプシー破り
デンプシー・ロールに対するカウンター。ウィービングのリズムに合わせてバックステップし視野を確保、直後フックに合わせてカウンターを放つ。
飛燕
手首から先の捻りでパンチの軌道をトリッキーに変化させるジャブ。
渡米後に団吉から伝えられたが、使用せざるを得ないほどの苦戦を強いられることがなかったため、エリオット戦まで封印されていた。軌道を変える際に軸足を深く入れる癖が見られる。
燕返し
拳を縦にすることでガードをすり抜けるアッパー。
飛燕同様、渡米後に団吉から伝えられたがエリオット戦まで封印されており、また軸足を通常より深く入れる癖がある。

脚注

  1. ^ 形式的にダウンと認められるが、宮田は「納得がいかないのも無理はない」と同情していた。
  2. ^ 別冊宝島四〇九号「ザ・マンガ家」 212-215ページ。