「ビーア・カルロフ・ドーニア」の版間の差分
Isobilation (会話 | 投稿記録) 4 aug 2014 15:58オランダ語版、2014年8月21日 (木) 09:31 英語版を参考に作成 |
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彼の人生のほとんどは伝説に包まれている。同時代の[[歴史家]]Petrus Thaboritaの記述に基づき、19世紀の歴史家Conrad Busken Huetは「Grutte Pier」において、「長い黒ひげと口ひげを生やし、肩幅が広い、色黒な、雄牛のように強い仲間たちの木。生まれながらにラフでユーモアのある人物を、不幸な出来事が野獣に変えてしまった。(1514年に)全ての財産が破壊され、家族たちも殺害されるという血まみれの悲劇の個人的な復讐から、彼は伝説的な自由戦士となった。」と記している<ref>Cd. Busken Huet, Het land van Rembrand. Studiën over de Noordnederlandsche beschaving in de zeventiende eeuw (2 delen in 3 banden). H.D. Tjeenk Willink, Haarlem 1882–1884</ref>。 |
彼の人生のほとんどは伝説に包まれている。同時代の[[歴史家]]Petrus Thaboritaの記述に基づき、19世紀の歴史家Conrad Busken Huetは「Grutte Pier」において、「長い黒ひげと口ひげを生やし、肩幅が広い、色黒な、雄牛のように強い仲間たちの木。生まれながらにラフでユーモアのある人物を、不幸な出来事が野獣に変えてしまった。(1514年に)全ての財産が破壊され、家族たちも殺害されるという血まみれの悲劇の個人的な復讐から、彼は伝説的な自由戦士となった。」と記している<ref>Cd. Busken Huet, Het land van Rembrand. Studiën over de Noordnederlandsche beschaving in de zeventiende eeuw (2 delen in 3 banden). H.D. Tjeenk Willink, Haarlem 1882–1884</ref>。 |
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元は[[農民]]の父と[[貴族]]の母の間に生まれた農民であった。[[ゲオルク (ザクセン公)|ザクセン公ゲオルク]]が内乱を抑える為に置いた悪名高い傭兵隊「[[ランツクネヒト]]Black Band」連隊により、1515年に妻を無残に殺害され村を焼かれたことから貴族や仲間たちと共に反乱軍を結成した。彼はいくつもの戦いで勝利したが、[[ハプスブルク家]]の攻勢は止まらず、1519年にWierd Jelckamaに部隊の指揮を引き継ぎ引退した<ref>Kok, Jacobus (1791). "Pier Gerlofs Donia". Vaderlandsch Woordenboek. 24 (P–R). Amsterdam: Johannes Allart. pp. 17–21.</ref>。1520年10月28日、ピアーはフリースランドのスネーク市Grootzand 12のベッドで亡くなった。<ref>Fries Scheepvaart Museum, Object number 1992-257</ref><ref>Kalma, J.J. (1970). (ed.) de Tille, ed. Grote Pier Van Kimswerd. Netherlands. p. 50. ISBN 90-70010-13-5.</ref>マティーニ教会に埋葬され、その墓は教会の北側に存在する<ref>Geldersche Volks-Almanak Published 1853</ref><ref>Kok, Jacobus (1791). "Pier Gerlofs Donia". Vaderlandsch Woordenboek. 24 (P–R). Amsterdam: Johannes Allart. pp. 17–21.</ref>。 |
元は[[農民]]の父と[[貴族]]の母の間に生まれた農民であった。[[ゲオルク (ザクセン公)|ザクセン公ゲオルク]]が内乱を抑える為に置いた悪名高い傭兵隊「[[ランツクネヒト]]Black Band」連隊により、1515年に妻を無残に殺害され村を焼かれたことから貴族や仲間たちと共に反乱軍を結成した。彼はいくつもの戦いで勝利したが、[[ハプスブルク家]]の攻勢は止まらず、1519年にWierd Jelckamaに部隊の指揮を引き継ぎ引退した<ref>Kok, Jacobus (1791). "Pier Gerlofs Donia". Vaderlandsch Woordenboek. 24 (P–R). Amsterdam: Johannes Allart. pp. 17–21.</ref>。1520年10月28日、ピアーはフリースランドのスネーク市Grootzand 12のベッドで亡くなった。<ref>Fries Scheepvaart Museum, Object number 1992-257</ref><ref>Kalma, J.J. (1970). (ed.) de Tille, ed. Grote Pier Van Kimswerd. Netherlands. p. 50. ISBN 90-70010-13-5.</ref>マティーニ教会に埋葬され、その墓は教会の北側に存在する<ref>Geldersche Volks-Almanak Published 1853</ref><ref>Kok, Jacobus (1791). "Pier Gerlofs Donia". Vaderlandsch Woordenboek. 24 (P–R). Amsterdam: Johannes Allart. pp. 17–21.</ref>。 |
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2014年9月16日 (火) 13:18時点における版
ピアー・カルロス・ドーニア(オランダ語:Pier Gerlofs Donia、約1480年キムスウェルト‐1520年10月28日スネーク)は、フリース人のウォーロード、反乱軍「Zwarte Hoop:ツワルテ・ホープ(「黒い希望」の意)」を指揮した自由戦士であり海賊である。巨躯で強かった為、Grutte Pier(「巨大なピアー」の意)とも呼ばれる。
彼の人生のほとんどは伝説に包まれている。同時代の歴史家Petrus Thaboritaの記述に基づき、19世紀の歴史家Conrad Busken Huetは「Grutte Pier」において、「長い黒ひげと口ひげを生やし、肩幅が広い、色黒な、雄牛のように強い仲間たちの木。生まれながらにラフでユーモアのある人物を、不幸な出来事が野獣に変えてしまった。(1514年に)全ての財産が破壊され、家族たちも殺害されるという血まみれの悲劇の個人的な復讐から、彼は伝説的な自由戦士となった。」と記している[1]。
生涯
元は農民の父と貴族の母の間に生まれた農民であった。ザクセン公ゲオルクが内乱を抑える為に置いた悪名高い傭兵隊「ランツクネヒトBlack Band」連隊により、1515年に妻を無残に殺害され村を焼かれたことから貴族や仲間たちと共に反乱軍を結成した。彼はいくつもの戦いで勝利したが、ハプスブルク家の攻勢は止まらず、1519年にWierd Jelckamaに部隊の指揮を引き継ぎ引退した[2]。1520年10月28日、ピアーはフリースランドのスネーク市Grootzand 12のベッドで亡くなった。[3][4]マティーニ教会に埋葬され、その墓は教会の北側に存在する[5][6]。
民話
フリース人からは英雄として扱われるが、ハプスブルク家側からは野蛮な侵略者として記述される。その剛力を表すエピソードとして、「親指と人差し指の間の硬貨を曲げた。約500㎏の馬を肩に乗せた。2.15メートル、6.6ポンドの剣を持ち、一振りで複数の敵の頭を落とした。」などが残さている。
参考文献
- ^ Cd. Busken Huet, Het land van Rembrand. Studiën over de Noordnederlandsche beschaving in de zeventiende eeuw (2 delen in 3 banden). H.D. Tjeenk Willink, Haarlem 1882–1884
- ^ Kok, Jacobus (1791). "Pier Gerlofs Donia". Vaderlandsch Woordenboek. 24 (P–R). Amsterdam: Johannes Allart. pp. 17–21.
- ^ Fries Scheepvaart Museum, Object number 1992-257
- ^ Kalma, J.J. (1970). (ed.) de Tille, ed. Grote Pier Van Kimswerd. Netherlands. p. 50. ISBN 90-70010-13-5.
- ^ Geldersche Volks-Almanak Published 1853
- ^ Kok, Jacobus (1791). "Pier Gerlofs Donia". Vaderlandsch Woordenboek. 24 (P–R). Amsterdam: Johannes Allart. pp. 17–21.