「山田景隆」の版間の差分

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加筆とコメントアウト/出典不明および山田景隆に関する記述として関連が不明確と思われます
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| 特記事項 =軍位 : 今川軍中陣左翼大将
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'''山田 景隆'''(やまだ かげたか))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武士。[[今川家]]の家臣で今川軍中陣左翼大将。今川家譜代家老衆の一人。[[岡崎城]]代を勤めた。今川家三河奉行人。通称は'''右近衛門尉'''(うこえもんじょう)、新右衛門尉(しんえもんのじょう)。
 
家紋は丸に二つ引([[引両紋]])足利系今川引両紋。清和源氏系統か。
 
== 経歴 ==
=== 三河奉行人 ===
今川家における三河方面の奉行人であったとされる。
[[天文 (日本)|天文]]20年([[1551年]])12月2日付けで、[[松平忠茂|松平甚太郎]](忠茂)宛に「山新 景隆」名儀で[[飯尾乗連]](豊前守)・[[二俣扶長]](近江守)らと連署を加えた血判起請文が知られている。文書の内容から山田景隆ら連署の3名は三河方面の今川方諸士に対し軍事指揮権を持っていたと推測されている。
 
=== 岡崎城代 ===
[[弘治]]2年([[1556年]])に[[徳川家康]](当時は松平元信)が[[今川義元]]の許しを得て、亡父[[松平広忠|広忠]]の法要のため本来の居城である岡崎城に戻った際、岡崎城本丸に居た今川方城代山田景隆に遠慮して、家康自身は二の丸に入って景隆に諸事の意見を仰ぐとした言われ、今川義元がその話を耳にして「この人若輩に似合わぬ分別厚き人なり」と家康に感心したという逸話が残る。(「岩淵夜話」、[[中村孝也]]『徳川家康公伝』所載)
 
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=== 桶狭間の戦いとその後===
[[永禄]]3年(1560年)5月19日[[桶狭間の戦い]]の際、岡崎城に陣を構えた景隆等に同日14時頃[[今川義元]]討ち死にの噂が流れる。そして義元戦死の情報が確実なものになると今川軍の各武将等は反転攻勢かと思われたがそうではなかった。景隆等は、織田軍の決死の総攻撃に耐え今川軍の多くの兵の命を救ったという。そしてこの時19歳の松平元康(後の[[徳川家康]])の存在が反転攻勢を仕掛けなかった原因だと言われている。
 
元康は、[[大高城]]で義元討死の情報を得たものの、「何方よりモ聢トシタル事無内ハ、兎角に退カせラレ間敷」(『[[三河物語]]』)と言って、確実な情報が得られるまでは動かず、さすがに慎重な様子が窺い知れる。翌20日、元康は岡崎まで兵を引き、岡崎城近くの[[大樹寺]]に兵を収めた。そして、岡崎城中の今川軍が駿河へ引きあげたのを見届けて、「捨城ナラバ拾ハン」(『三河物語』)と言って、岡崎城に入り、12年にも及ぶ人質生活から解放された。
 
結果的に義元戦死直後、今川軍の武将等は反転攻勢をするのではなく後の家康と信長の何とも言えないアンバランスになることを見定め、人質から解放された家康を起てること。そして無謀な反転攻勢して今川系を絶やさないためにも、景隆をはじめ、各武将等は陣地、城を明け渡すことにした。この選択が功を奏し、戦い後10年近く今川としての領地を守ることにつながった。その後は[[後北条氏]]を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は[[江戸幕府]]のもとで[[高家]]として家名を残し、今川家の滅亡は避けることができた。(コメントアウト/出典不明および山田景隆に関する記述として関連が不明確と思われます)-->
 
=== 勢力と影響 ===
[[松平忠茂]]を後援。織田家に近い[[桜井松平家]]、[[大給松平家]]を圧迫した。
 
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=== 各家臣のその後 ===
今川に仕えた[[朝比奈氏]]、[[山田氏]]、[[吉良氏]]、[[由比氏]]、[[岡部氏]]、[[天野氏]]など多くの家臣等の子孫の多くが今も今川家ゆかりの地[[静岡県]]に多く在住しているという。(コメントアウト/出典不明および山田景隆に関する記述として関連が不明確と思われます)-->
 
 
== 歴史資料 ==
*「河手若宮鰐口」 - この鰐口は銘文に「河若手宮鰐口大旦那宗泰新次郎景隆 天文二十二年(1553年)霜月吉日」とある。宗泰新次郎景隆とは、[[今川氏]]に仕え勢力を揮った山田景隆のことである。山田氏の歴史資料としてとても貴重なものである(豊田市博物館)。
 
*「岡崎城代山田景隆等連署血判起請文」(観泉寺所蔵文書)、『今川氏と観泉寺』。
 
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