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'''北条 高宣'''(ほうじょう たかのぶ)は、[[鎌倉時代]]末期の[[北条氏]]の一門。
'''北条 高宣'''(ほうじょう たかのぶ、生年不詳 - [[嘉暦]]3年([[1328年]])[[4月 (旧暦)|4月]])は、[[鎌倉時代]]末期の[[北条氏]]の一門。


== 人物 ==
== 人物 ==
[[北条氏 (大仏流)|大仏流]]の[[北条維貞]]の[[嫡子]]として生まれる(この年は不明)。[[元服]]時に[[得宗]]の[[北条高時]]より字を受けて'''高宣'''と名乗った<ref>山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、脚注(27) (山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年、ISBN 978-4-7842-1620-8) p.182)より。詳細は[[北条氏 (大仏流)]]の項を参照のこと。「宣」の字は曽祖父・[[北条宣時|宣時]]、祖父・[[北条宗宣|宗宣]]に由来するものである。</ref>。官位は[[式部大輔]]<ref name="osaragi">[http://homepage1.nifty.com/kitabatake/hojyo-notk.html こちら]より。</ref>。
[[北条氏 (大仏流)|大仏流]]の[[北条維貞]]の[[嫡子]]として生まれる(この年は不明)。[[元服]]時に[[得宗]]の[[北条高時]]より1字を受けて'''高宣'''と名乗った<ref>山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、脚注(27) (山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年、ISBN 978-4-7842-1620-8) p.182)より。詳細は[[北条氏 (大仏流)]]の項を参照のこと。「宣」の字は曽祖父・[[北条宣時|宣時]]、祖父・[[北条宗宣|宗宣]]に由来するものである。</ref>。官位は[[式部大輔]]<ref name="osaragi">[http://homepage1.nifty.com/kitabatake/hojyo-notk.html こちら]より。</ref>。


[[嘉暦]]2年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]([[1327年]][[9月22日]])に維貞が死去したのに伴い、大仏北条家の家督を継承したが、高宣もその翌年の[[1328年]]4月に亡くなった<ref name="osaragi" />。跡を弟の[[北条家時|家時]]が継いだ<ref name="osaragi" />。
[[嘉暦]]2年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]([[1327年]][[9月22日]])に維貞が死去したのに伴い、大仏北条家の家督を継承したが、高宣もその翌年の嘉暦3年([[1328年]])4月に亡くなった<ref name="osaragi" />。跡を弟の[[北条家時|家時]]が継いだ<ref name="osaragi" />。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2014年7月26日 (土) 14:32時点における版

北条 高宣(ほうじょう たかのぶ、生年不詳 - 嘉暦3年(1328年4月)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。

人物

大仏流北条維貞嫡子として生まれる(この年は不明)。元服時に得宗北条高時より1字を受けて高宣と名乗った[1]。官位は式部大輔[2]

嘉暦2年9月7日1327年9月22日)に維貞が死去したのに伴い、大仏北条家の家督を継承したが、高宣もその翌年の嘉暦3年(1328年)4月に亡くなった[2]。跡を弟の家時が継いだ[2]

脚注

  1. ^ 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、脚注(27) (山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年、ISBN 978-4-7842-1620-8) p.182)より。詳細は北条氏 (大仏流)の項を参照のこと。「宣」の字は曽祖父・宣時、祖父・宗宣に由来するものである。
  2. ^ a b c こちらより。


先代
北条維貞
時房流北条氏第5代
大仏流5代
次代
北条家時