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その後、夫・孝高は[[豊臣秀吉]]の腹心として活躍し、[[豊前国]]中津12万石の[[大名]]になると、光は他の大名家の妻子と同様に大坂に置かれた。[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]が起こると、[[石田三成]]が大坂に残っている大名の妻子を人質にしようとしたが、[[細川ガラシャ]]が拒否して玉造の屋敷に火を放った際に伴い監視が緩むと、孝高の家臣たち([[栗山利安]]、[[母里友信]]、[[宮崎重昌]])によって、光や長政室・[[栄姫]]は長柄の屋敷から救出され、孝高の居城の[[豊前国]][[中津城]]まで船で脱出した。


夫や息子は[[受洗]]して[[キリシタン]]となったが、光は熱心な[[浄土宗]]の信徒で、[[1602年]](慶長7年)出家して照福山顕光院[[圓應寺]]などの寺院を建立した。黒田家では「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)」と称えられた。
夫や息子は[[受洗]]して[[キリシタン]]となったが、光は熱心な[[浄土宗]]の信徒で、[[1604年]](慶長9年)夫・孝高の死後出家して照福山顕光院[[圓應寺]]などの寺院を建立した。黒田家では「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)」と称えられた。


[[1627年]]([[寛永]]4年)、[[筑前国]]福岡において死去(卒年75)。戒名は照福院殿然誉浩栄大尼公。墓は、圓應寺(福岡)、報土寺(京都)、崇福寺(福岡)にある。
[[1627年]]([[寛永]]4年)、[[筑前国]]福岡において死去(卒年75)。戒名は照福院殿然誉浩栄大尼公。墓は、圓應寺(福岡)、報土寺(京都)、崇福寺(福岡)にある。

2014年5月14日 (水) 04:37時点における版

くしはし てる(みつ)
櫛橋 光
櫛橋光(報土寺蔵)
生誕 1553年天文22年)
播磨国印南郡志方
死没 1627年10月5日
寛永4年8月26日
筑前国福岡
墓地 圓應寺(福岡)
報土寺(京都)
崇福寺(福岡)
国籍 日本の旗 日本
宗教 仏教浄土宗
配偶者 黒田孝高
子供 黒田長政
黒田熊之助
櫛橋伊定
補足
雅号:幸圓
院号:照福院
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櫛橋 光(くしはし てる(みつ))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。播磨国印南郡(現在の兵庫県加古川市志方町)の志方城主・櫛橋伊定の娘。小寺政職の従姪であり養女。黒田孝高の正室。院号は照福院(しょうふくいん)。雅号に幸圓(こうえん)がある。

生涯

1553年天文22年)、播磨国志方城主・櫛橋伊定の娘として誕生。兄に櫛橋政伊櫛橋則政、姉に上月景貞室(妙寿尼)、妹に井上之房室がいる。

1567年永禄10年)、小寺氏の家臣・黒田孝高に正妻として嫁いだ。孝高は側室を持つことはなく、1568年(永禄11年)に黒田長政1582年天正10年)に黒田熊之助を産んだ。

織田信長の才能を高く評価していた夫・孝高は、主君の小寺政職に臣従を進言し、毛利氏攻めなどの先鋒を務める。ところが、1578年天正6年)3月、播磨国の別所長治が殆どの周辺豪族を引き込んで信長に反旗を翻すと、志方城の兄・櫛橋伊則もこれに呼応して敵対した。しかし同年7月、志方城は織田信雄の兵に包囲され、出撃を数度繰り返すも被害は大きく、別所氏神吉城が落とされると、同年8月10日に櫛橋氏は降伏した。降伏の際に志方城主は人質を出して兵士たちの助命を条件に自害したといわれるが、父・伊定とも兄・伊則ともいわれており詳細は不明。なお、兄の子は許されて、後に黒田氏に仕えた。

その後、夫・孝高は豊臣秀吉の腹心として活躍し、豊前国中津12万石の大名になると、光は他の大名家の妻子と同様に大坂に置かれた。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いが起こると、石田三成が大坂に残っている大名の妻子を人質にしようとしたが、細川ガラシャが拒否して玉造の屋敷に火を放った際に伴い監視が緩むと、孝高の家臣たち(栗山利安母里友信宮崎重昌)によって、光や長政室・栄姫は長柄の屋敷から救出され、孝高の居城の豊前国中津城まで船で脱出した。

夫や息子は受洗してキリシタンとなったが、光は熱心な浄土宗の信徒で、1604年(慶長9年)夫・孝高の死後出家して照福山顕光院圓應寺などの寺院を建立した。黒田家では「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)」と称えられた。

1627年寛永4年)、筑前国福岡において死去(卒年75)。戒名は照福院殿然誉浩栄大尼公。墓は、圓應寺(福岡)、報土寺(京都)、崇福寺(福岡)にある。

備考

  • 光姫の読み方は「テル姫」が通説であったが、2013年平成25年)8月、自身が建立した菩提寺である圓應寺(福岡)の蔵書から(ミツ)とルビの記された古文書が発見され、同月26日発表された[1]
  • 孝高が太宰府天満宮に収めた『如水夢想連歌集』の中で、「長閑(のどか)に 風のかよふ 江のみず」と返歌を読んだ幸圓が、光の雅号だと考えられている(「幸園」とする書籍があるが、誤記である)。

関連作品

漫画
テレビドラマ

脚注

  1. ^ 三木英信. “光(みつ)姫? 光(てる)姫?”. 圓應寺. 2003年11月22日閲覧。

参考文献

  • 小石房子 著「妻・幸圓と黒田家の女たち」、播磨学研究所 編 編『稀代の軍師黒田官兵衛』神戸新聞総合出版センター、兵庫県神戸市中央区〈のじぎく文庫〉、2008年4月、83-108頁。ISBN 978-4-343-00457-4 

関連項目

外部リンク