「ネルウァ」の版間の差分

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補充執政官の経験者である元老院議員マルクス・コッケイウス・ネルウァ(同名)とセルギア・プラウティッラの子として[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]の都市ナルニに生まれる<ref name=grainger-29>Grainger (2003), p.&nbsp;29</ref>。記録によれば30年から35年の間に生まれたとされている<ref>"[[Aurelius Victor]] records the year as 35, [[Cassius Dio]] as 30. The latter has been more widely accepted" (Wend, [http://www.roman-emperors.org/nerva.htm#N_2_ n. 2]). [[Ronald Syme]] considered the dates of Nerva's later offices more consistent with 35; see {{ cite book | last = Syme | first = Ronald | title = Tacitus | location = Oxford | publisher = Oxford University Press | year = 1958 | isbn = 0-19-814327-3 | pages = 653 }}</ref>。姉妹のコッケイアは[[オト]]帝の兄弟である[[:en:Titianus|ルキウス・サルウィウス・ティティアヌス・オト]]に嫁いでおり、両家は親族関係にあった<ref name=grainger-29/>。
 
後にフラウィウス朝を開く[[ウェスパシアヌス]]帝がそうであったように、ネルウァ家が属するコッケイウス氏族は[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]の裕福な氏族ではあったが、上流氏族ではなかった<ref name=syme-rubellius-83>Syme (1982), p.&nbsp;83</ref>。それでもコッケイウス氏族とネルウァ家は帝政期から突出した力を持つ勢力へと成長を遂げた。曾祖父は紀元前36年に[[執政官]]を務めた後にアシア総督となり、祖父はティベリウス帝の重臣として21年に補充執政官となりカプリ島隠棲にも同行したとされ、父はカリグラ帝時代の西暦40年に補充執政官へと指名された<ref name=grainger-28>Grainger (2003), p.&nbsp;28</ref>。また母方の叔父にあたるセルギア・プラウティッラの弟オクタウィアヌス・ラエナスはティベリウス帝の曾孫娘にあたる[[:en:Rubellia Bassa{{仮リンク|ルベリア・バッサ]]|en|Rubellia Bassa}}と結婚していた<ref name=syme-rubellius-83/>。
 
=== 帝国内での立身 ===
宮殿に出入りし始めた頃のネルウァについて記録は殆ど残っておらず、軍や元老院で継続的に何かの役職に就いていた形跡もない。歴史の表舞台に立つのは西暦65年に法務官へ指名された時からで、先祖と同じく外交や権謀術数を得意とする政治家として活躍し始めた<ref name=grainger-29/>。彼は同年に発生したネロ帝に対する暗殺未遂事件([[:en:Pisonian conspiracy|ピソの陰謀]])を未然に防いだと言われている。謀議の暴露にどれほどの貢献をしたのかは定かではないが、この一件でネルウァは宮殿内の地位を確かなものにした。同じく貢献を認められた[[ガイウス・オフォニウス・ティゲッリヌス]]や[[プブリウス・ペトロニウス・トゥルピリアヌス]]と並んで凱旋式を行う許可を受け、ネルウァの胸像が街中に飾られた<ref name=grainger-29/>。
 
ネロ時代の実力者として台頭したネルウァは他の重臣団の中では後に帝位を簒奪する[[ウェスパシアヌス]]と親友の間柄であった。67年に起きた[[ユダヤ戦争]]に出陣する際、末っ子のドミティアヌスの養育をネルウァに頼んだという逸話が残っている<ref name=murison-149>Murison (2003), p.&nbsp;149</ref>。他にネルウァは文才に溢れた教養家としても評判を得ており、詩人[[マルティアリス]]から「我らの時代に生きる[[:en:Tibullus{{仮リンク|ティブルス]]|en|Tibullus}}」と賞賛されていた<ref name=murison-148>Murison (2003), p.&nbsp;148</ref>。
 
68年7月9日、ネロが使用人エパフロトに促されて自害に及ぶと帝位と新たな王朝成立を目指した諸侯による内乱が始まった。[[四皇帝の年]]として知られる凄惨な内戦の末、勝ち残ったのは[[ウェスパシアヌス]]であった。その間にネルウァが何をしていたかは不明であるが少なくとも血縁上の縁があったはずのオト帝を支持する事はなく、むしろ個人的友人であるウェスパシアヌスを支持していたと見られる<ref name=murison-150>Murison (2003), p.&nbsp;150</ref>。71年、恐らくはその論功行賞という形で皇帝となった[[ウェスパシアヌス]]帝から執政官に叙任されている。新たな王朝を開いた[[フラウィウス朝]]にとって最初の人事で執政官に選ばれたこと、また補充執政官ではなく正規の執政官職であったことなどから、ネルウァが旧友から深い信頼を得ていたと推測される<ref name=murison-150/>。
ところがそれからネルウァについての目立った記録は乏しくなる。恐らくは皇子となったティトゥスとドミティアヌスの兄弟の養育を担当していたと考えられるが、特筆すべき記録は残っていない。
 
ネルウァが史書に再び登場するのは10年以上が経過した西暦89年のドミティアヌス帝時代で、[[高地ゲルマニア・スペリオル]]総督[[:en:Lucius Antonius Saturninusの{{仮リンク|ルキウス・アントニウス・サトゥルニヌス]]の反乱|en|Lucius Antonius Saturninus}}が[[:en:Chatti|カッティ族]]の支援を受けて反乱を起こした時となる<ref name=jones-144>Jones (1992), p.&nbsp;144</ref>。反乱は24日間で鎮圧されてサトゥルニヌスは殺害され、反乱に加担した兵士はイリリュクムへと転任させられた<ref name=jones-149>Jones (1992), p. 149</ref>。この一連の事件の翌年にドミティアヌス帝はネルウァを執政官に叙任した。この背景にはかつてのピソの陰謀と同じく、ネルウァがサトゥルニヌスの反乱鎮圧に政治面で何らかの貢献をしたのではないかとする意見がある<ref name=murison-150/>。
 
== 治世 ==
ネルウァ帝は内戦の危機を防ぐ事には成功したものの、自らの皇帝権が余りにも弱いと痛感し、温厚な気質もあって次第に国家指導での決断を避け始めた。例えば彼は即位の際に反逆者への弾劾裁判を行わないように元老院へ要請したが、後に元老院による密告者の処罰を許可した。結果として元老院による粛清や政治闘争の嵐が吹き荒れることになり、腹心であった[[セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス]]は「これではドミティアヌスの強権支配が、ネルウァ帝の無秩序よりは良かったと言われても仕方あるまい」と批判の言葉を残している<ref name="dio-history-lxviii-1"/>。西暦97年、とうとうネルウァ帝に対する暗殺未遂事件が発生した。首謀者の議員は処刑されたが、それでもネルウァ帝は元老院への粛清を拒否した<ref name="victor-caesaribus-12-6">Aurelius Victor (attrib.), ''Epitome de Caesaribus'' [http://www.roman-emperors.org/epitome.htm 12.6]</ref><ref>Crassus was exiled to [[Tarentum]] and later executed under emperor Hadrian.</ref>。
 
以前から指摘されていた健康面と年齢面からの衰えが明らかになると、状況は更に悪化した<ref>Cassius Dio describes Nerva as having to vomit up his food, see [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/68*.html#1.3 Dio, LXVIII.1.3]</ref>。ネルウァ帝も後継者を身内から選ぶ事を考えていない訳ではなかったが、先述の通り子供に恵まれておらず、親族においても男子が乏しく政治世界に進んだ者も居なかった。結局、ネルウァ帝は周囲の目論見通り自らの王朝を開く事を諦めねばならず、重臣団から養子を迎えて後継者にする決断を下した。そしてネルウァ帝が選んだ人物は[[シリア属州]]総督プブリウ[[マルクス・コルネリウス・ニグリヌス(Publius Cornelius Nigrinus)・クリアティウス・マテルヌス]]であったと考えられている<ref>Cassius Dio describes Nerva as having to vomit up his food, see [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/68*.html#1.3 Dio, LXVIII.1.3]</ref>。だがこれに対して諸軍団の意向を受けた近衛隊は[[ゲルマニア・スペリオル]]総督[[トラヤヌス|マルクス・ウルピウス・トラヤヌス]]を後継者にするべく活動し、ニグリヌス派とトラヤヌス派に分かれて対立が始まった。
 
同年10月、近衛隊長[[:en:Casperius Aelianus{{仮リンク|カスペリウス・アエリアヌス]]|en|Casperius Aelianus}}は近衛隊を連れて宮殿を包囲し、ネルウァ帝を軟禁状態に置いた<ref name="dio-history-lxviii-3"/>。近衛隊に屈したネルウァ帝はペトロニウスらドミティアヌス暗殺の実行犯達を死罪にする事に同意し、さらにはカスペリウスの行為を賞賛する演説までさせられる屈辱を味わった<ref name="victor-caesaribus-12-8">Aurelius Victor (attrib.), ''Epitome de Caesaribus'' [http://www.roman-emperors.org/epitome.htm 12.8]</ref>。宮殿内に滞在していたペトロニウスとドミティアヌスの侍従であったパルテニヌスは近衛兵に殺害され、ネルウァ帝自身は解放されたが最早取り返しがつかない程に権威を失墜させた<ref name="dio-history-lxviii-3"/>。ネルウァ帝は近衛隊を中心とした帝国軍の影響下となり、軍の支持を取り付ける以外に生き残る方法はない事を知った<ref name="lendering-casperius-aelianus"/><ref name="syme-finances-62">Syme (1930), p. 62</ref>。反乱から暫くしてネルウァ帝はトラヤヌスを後継者に指名し<ref name="dio-history-lxviii-3"/>、この決定で実質的に退位に近い状態へと追い込まれた<ref>Pliny the Younger, ''Panygericus'' 7.4</ref><ref>{{ cite journal | last = Syme | first = Ronald | authorlink = Ronald Syme | title = Guard Prefects of Trajan and Hadrian | format = subscription required | journal = The Journal of Roman Studies | volume = 70 | pages = 64 | year = 1980 | accessdate = 2007-09-23 | doi = 10.2307/299556 | publisher = Society for the Promotion of Roman Studies | jstor=299556}}</ref>。
 
トラヤヌスはネルウァ家の家督相続者となり、副帝と執政官に叙任された。カッシウス・ディオは以下の様に評している。:
98年、4度目の執政官任期中にネルウァ帝は脳卒中で倒れ<ref name="victor-caesaribus-12-10">Aurelius Victor (attrib.), ''Epitome de Caesaribus'' [http://www.roman-emperors.org/epitome.htm 12.10]</ref>、1月28日に熱病により別荘で病没した<ref name="jerome-chronicle-275">Jerome, ''Chronicle'', Romans, p275</ref><ref name="victor-caesaribus-12-11">Aurelius Victor (attrib.), ''Epitome de Caesaribus'' [http://www.roman-emperors.org/epitome.htm 12.11]</ref>。直ちに元老院はネルウァ帝を神格化する決議を行い<ref name="jerome-chronicle-275"/>、遺骸は火葬にされた後にアウグストゥス廟へ遺灰が埋葬された<ref name="victor-caesaribus-12-12">Aurelius Victor (attrib.), ''Epitome de Caesaribus'' [http://www.roman-emperors.org/epitome.htm 12.12]</ref>。
 
死に伴いトラヤヌスが帝位継承を宣言すると特に批判もなく元老院はこれを承認し、民衆も軍も熱狂してこれを支持した。[[プリニウス]]によればトラヤヌス帝はネルウァ帝の死を悼むべく神殿を建設したというが<ref>Pliny the Younger, ''Panegyricus'' 11.1</ref>、遺跡は未だに発見されていない。またネルウァ帝の事跡を記録した記念通貨は死後10年後にまで発行されなかった。この事からトラヤヌス帝のネルウァ帝への忠誠を疑う意見もあるが、一方でトラヤヌス帝は自らの即位に活躍した[[:en:Casperius Aelianus{{仮リンク|カスペリウス・アエリアヌス]]|en|Casperius Aelianus}}を先帝の権威を辱めたとして宮殿から追放している<ref>Cassius Dio, ''Roman History'' [http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/68*.html#5 LXVIII.5]</ref>。
 
== 略年表 ==
2,308

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