「シリアの歴史」の版間の差分

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7世紀にはイスラム勢力が勃興し、イスラム圏に組み入れられた。[[ウマイヤ朝]]のもとでは[[ダマスカス]]が首都とされた。その後[[754年]]に樹立された[[アッバース朝]]は[[バグダード]]を首都としたため、シリア地方に転落した。しかし、バグダードからはシリアのダマスカスに通じる門と街道が整備された。その後[[10世紀]]には[[ファーティマ朝]]が支配するが、10世紀末の反抗運動により撤退した。その後中央アジアから[[トルコ系]]遊牧民が渡来し、[[セルジューク朝]]を樹立すると、シリアには[[シリア・セルジューク朝]]が成立した。その頃[[ヨーロッパ]]から[[十字軍]]が侵攻し激戦が展開され、[[アンティオキア]]を都に置く[[アンティオキア公国]]が建国された。[[1117年]]にシリア・セルジューク朝が滅亡すると、代わって[[アルトゥク朝]]が支配したが、[[1194年]]には[[アイユーブ朝]]が取って代わった。[[1260年]]に[[フレグ]]率いる[[モンゴル人]]がこの地を征服し({{仮リンク|モンゴルのシリア侵攻|en|Mongol invasions of Syria}})、[[イル汗国]]を建国した。その後シリアは[[エジプト]]の[[マムルーク朝]]の支配を受けることになった。北方で[[オスマン帝国]]が興隆し、マムルーク朝が滅ぼされるとシリアはオスマン帝国の支配を受けることになった。
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=== トルコ系王朝 ===
==フランス占領期==
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=== クルド系王朝 ===
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=== モンゴル帝国 ===
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=== マムルーク朝 ===
その後シリアは[[エジプト]]の[[マムルーク朝]]の支配を受けることになった。

=== オスマン帝国 ===
北方で[[オスマン帝国]]が興隆し、マムルーク朝が滅ぼされるとシリアはオスマン帝国の支配を受けることになった({{仮リンク|シャム・エヤレト|en|Damascus Eyalet|label=ダマスカス・エヤレト}})。

===フランス占領期===
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=== 独立 ===
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==関連項目==
==関連項目==

2014年1月1日 (水) 23:01時点における版

シリアの歴史を記す。この地域は世界的にも歴史の古い土地であり、古代オリエント時代においてもメソポタミアアッシリアバビロニア、さらにギリシアローマビザンチン帝国と支配者がめまぐるしく変わり、今のようにイスラム世界に入ってからも、ウマイヤ朝アッバース朝セルジューク朝、などの各王朝からモンゴル人イル汗国オスマン帝国と支配者は変わった。近代には列強の争いの舞台となるなど、人類史の縮図といっていい。

概史

先史

エブラ遺跡

この地域は世界で最も古い歴史を持つ土地と言われ、紀元前1万年頃に氷河期が終わり、地球が温暖化が始まった紀元前8000年頃にはこの地域ではによる農耕が始められた。紀元前6000年ごろには「肥沃な三日月地帯」の一部として灌漑農業が発展し、紀元前3000年ころには農耕に富を基盤とした文明の萌芽があった。

「肥沃な三日月地帯」

古代中東地域の都市と諸勢力

紀元前3千年紀にはエブラキシュアブツァラリクマリなど血縁によって結ばれたセム語都市文明圏が成立し、そのうちエブラは大麦オリーブや織物の生産が行われ、「マリムーク」という指導者のもと、メソポタミアからパレスチナエジプトまで交易が営まれていた。紀元前23世紀頃には王の道ウィア・マリスという通商交易路が使われていた。エブラは紀元前2250年ごろにアッカドに滅ぼされる。

マリは宗教的中心地として紀元前1900年頃栄えるが、紀元前1850年アッシリア王のシャムシ・アダド1世ヤスマフ・アダドをマリ王にし間接支配を布いた。そして紀元前1759年にはバビロニアハンムラビに滅ぼされた。紀元前15世紀にミタンニ王国が成立。紀元前13世紀にはアッシリアがミタンニ王国を滅ぼした。

一方、海岸部ではフェニキア人の植民が展開された。海の民によりヒッタイトが滅亡するとアラム人の小国が乱立。その後はアッシリアがティグラト・ピレセル3世などの優秀な指導者によって勢力を増し、紀元前735年アッシリアが統一。紀元前732年には北に位置する騎馬民族スキタイに押されて南下したキンメリア人の侵攻を受けた。その後、アッシリア最後の偉大な王とされるアッシュールバニパル(在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)が即位し、ニネヴェ図書館と呼ばれる図書館を建造して数万点に及ぶ粘土板を保管した。これらは今のメソポタミア史を研究する上で絶大な影響力を持つ。 だが彼の死後、急速に衰退したアッシリアは紀元前612年新バビロニアメディアの攻撃を受けて滅亡。そして新バビロニアメディアリディアエジプトなどの強国が乱立するが、アケメネス朝ペルシアキュロス2世がメソポタミア地域の統一、続くカンビュセス2世古代エジプトを制圧し、ついに古代オリエント世界全域の支配に成功した。

ギリシアとローマの支配

ローマ帝国シリア属州

アケメネス朝ペルシアの支配は長く続いたが、アレクサンドロス大王率いるマケドニア王国の征服を受けると、急速にギリシア化が進んだ。紀元前322年ディアドコイ戦争でアレクサンドロス帝国は分裂し、紀元前301年セレウコス朝シリアが建国された。セレウコス朝シリアはインドからイランをへてトルコにいたる広大な領土を持っていたが、紀元前200年ころからアルサケス朝パルティアグレコ・バクトリア王国の侵食を受け縮小。さらにポエニ戦争にかかわったことから古代ローマ共和政ローマ)とローマ・シリア戦争などで交戦状態となって衰退してゆき、紀元前64年ローマ帝国に併合された。

ローマ帝国の支配下ではパルミラなど諸都市が大いに栄えた。ローマ帝国が東西に分裂するとシリアは東ローマ帝国の版図に入る。

イスラム圏へ

ダマスカスウマイヤド・モスク7世紀

7世紀にはイスラム勢力が勃興し、イスラム圏に組み入れられた。ウマイヤ朝のもとではダマスカスが首都とされた。その後754年に樹立されたアッバース朝バグダードを首都としたため、シリア地方に転落した。しかし、バグダードからはシリアのダマスカスに通じる門と街道が整備された。その後10世紀にはファーティマ朝が支配するが、10世紀末の反抗運動により撤退した。

トルコ系王朝

その後中央アジアからトルコ系遊牧民が渡来し、セルジューク朝を樹立すると、シリアにはシリア・セルジューク朝が成立した。その頃ヨーロッパから十字軍が侵攻し激戦が展開され、アンティオキアを都に置くアンティオキア公国が建国された。1117年にシリア・セルジューク朝が滅亡すると、代わってアルトゥク朝が支配した。

クルド系王朝

1194年にはアイユーブ朝が取って代わった。

モンゴル帝国

1260年フレグ率いるモンゴル人がこの地を征服し(モンゴルのシリア侵攻英語版)、イル汗国を建国した。

マムルーク朝

その後シリアはエジプトマムルーク朝の支配を受けることになった。

オスマン帝国

北方でオスマン帝国が興隆し、マムルーク朝が滅ぼされるとシリアはオスマン帝国の支配を受けることになった(ダマスカス・エヤレト英語版)。

フランス占領期

フランス委任統治領シリア

1920年3月8日シリア・アラブ王国の独立はハーシム家ファイサル1世が国王に即位することで達成された。 しかし、フランス・シリア戦争英語版en:Battle of Tel Haiマイサラムの戦い英語版en:Siege of Damascus (1920))におけるシリア・アラブ軍フランス軍との間の衝突すると、7月24日にはファイサル1世のシリアにおける治世は四ヶ月あまりで終焉し、彼は後にイラク王国の王になる。 国際連盟がシリアをフランスの委任統治下においたのち、フランス軍はシリアを占領した(フランス委任統治領シリア1920年-1946年)。その後、フランス委任統治領シリアは、en:State of Damascusen:State of Aleppoen:Alawite Stateen:Jabal Druze Stateen:Sanjak of Alexandretta大レバノンに分割・統治された。

フランスとシリアはフランス・シリア独立条約英語版1936年9月に交渉した、ファイサル王政下のシリア首相、ハーシム・アル=アタースィー英語版は新政権下での新しい大統領に選ばれ、その結果、近代最初のシリア共和国英語版が樹立された。 しかし。フランスは条約を reneged し、それを ratify するために拒否した。第2次世界大戦時、1940年フランス陥落により、シリアは、1941年7月にイギリス軍自由フランス軍に占領されるまでヴィシー政権の統治下におかれた。 シリアは1941年にその独立を宣言した。しかしそれが一共和国の独立宣言として認識されたのは1944年の7月のことであった。1945年2月、シリアはドイツ日本に宣戦布告をした。シリアの民族主義者グループからのプレッシャーの継続および英国からの圧力は、1946年4月にフランスをして同国軍を撤退せしめ、委任統治時、結成された共和国政府が掌握した国家が遺された。

独立

関連項目