「吉田司家」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
10行目: 10行目:
</ref>、武家相撲の作法および[[土俵]]の登場・礼式などすべての相撲の様式を定めた。以来江戸時代を通じて、横綱免許はすべて吉田司家によって授与されていた。また、[[行司]]の最高位である[[立行司]]の免許も吉田司家が発行していた。
</ref>、武家相撲の作法および[[土俵]]の登場・礼式などすべての相撲の様式を定めた。以来江戸時代を通じて、横綱免許はすべて吉田司家によって授与されていた。また、[[行司]]の最高位である[[立行司]]の免許も吉田司家が発行していた。


西南戦争(1877)において23代吉田善門は[[西郷隆盛]]率いる反乱軍に従軍し戦いに敗れた後、熊本に帰り暫く謹慎していたが明治15年7月東京相撲会所と交わした約款証書に基づいて梅ヶ谷藤太郎(初代)に横綱免許状を授与した。その反面、京都の[[五条家]]が相撲の家元と称し江戸末期からあちこちで横綱免許を出していたことがあった。
[[1877年]]、西南戦争において23代吉田善門は[[西郷隆盛]]率いる反乱軍に従軍し戦いに敗れた後、熊本に帰り暫く謹慎していたが[[1882]]7月東京相撲会所と交わした約款証書に基づいて梅ヶ谷藤太郎(初代)に横綱免許状を授与した。その反面、京都の[[五条家]]が相撲の家元と称し江戸末期からあちこちで横綱免許を出していたことがあった。


[[明治維新]]の中で相撲廃止論が起こったとき、23世 吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。そして明治41年5月、九段靖国神社の拝殿に相撲協会年寄、幕内、十両以上の力士、並びに足袋免許以上の総参集を求め奮起の一渇を与え、明治42年6月の両国国技館の新設にかったのである。そして大正14年8月相撲協会取締出羽海梶之助から財団法人化申請で相談を受けていた吉田善門は要職の一部を相撲協会のからと助言し、大正14年12月文部大臣岡田良平から財団法人の認証を受けた。会長には陸軍大将福田雅太郎、理事長には元陸軍主計中将が就任した。
[[明治維新]]の中で相撲廃止論が起こったとき、23世 吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。そして[[1908]]5月、九段靖国神社の拝殿に相撲協会年寄、幕内、十両以上の力士、並びに足袋免許以上の総参集を求め奮起の一渇を与え、[[1909]]6月の両国国技館の新設にかったのである。そして[[1925]]8月相撲協会取締[[両國梶之助 (國岩)|出羽海梶之助]]から[[財団法人]]化申請で相談を受けていた吉田善門は要職の一部を相撲協会の外部からと助言し、年12月[[文部大臣]][[岡田良平]]から財団法人の認証を受けた。会長には[[陸軍大将]][[福田雅太郎]]、理事長には元[[陸軍]][[主計]][[中将]]が就任した。

 一方、[[大坂相撲]]には長らく立行司免許のみを発行し横綱免許は発行していなかったが明治に入り[[若嶌權四郎]]に横綱免許を発行、[[大木戸森右エ門]]の横綱問題で1度は大坂を[[破門]]するも後に和解成立により追認、これに[[大錦大五郎]]と[[宮城山福松]]を加えた4人の吉田司家の免許を持つ公認横綱が登場した。
一方、[[大坂相撲]]には長らく立行司免許のみを発行し横綱免許は発行していなかったが明治に入り[[若嶌權四郎]]に横綱免許を発行、[[大木戸森右エ門]]の横綱問題で1度は大坂を[[破門]]するも後に[[和解]]成立により追認、これに[[大錦大五郎]]と[[宮城山福松]]を加えた4人の吉田司家の免許を持つ公認横綱が登場した。


第40代横綱[[東富士欽壹]]までは吉田司家による横綱本免許状授与式(仮免許は、司家の主君であった細川家の東京[[小石川]]の別邸で取り行われた)が続いた。しかし、司家24世[[吉田追風|追風]]長善が不祥事を起こし[[1951年]]11月に引退、当時7歳の長孝が25世を継いだが、[[日本相撲協会]]は司家代表者と協議した末、永年にわたる司家の権限を変革し、第41代横綱[[千代の山雅信]]以降は協会が自主的に横綱推挙を行なうことになり、免許権を協会に移譲し、司家は明治神宮での横綱推挙式に臨席し横綱及び故実書一巻を授与するだけとなった。しかし三役格以上の行司は熊本市の司家で行司免許を授けられてきた。
第40代横綱[[東富士欽壹]]までは吉田司家による横綱本免許状授与式(仮免許は、司家の主君であった細川家の東京[[小石川]]の別邸で取り行われた)が続いた。しかし、司家24世[[吉田追風|追風]]長善が不祥事を起こし[[1951年]]11月に引退、当時7歳の長孝が25世を継いだが、[[日本相撲協会]]は司家代表者と協議した末、永年にわたる司家の権限を変革し、第41代横綱[[千代の山雅信]]以降は協会が自主的に横綱推挙を行なうことになり、免許権を協会に移譲し、司家は明治神宮での横綱推挙式に臨席し横綱及び故実書一巻を授与するだけとなった。しかし三役格以上の行司は熊本市の司家で行司免許を授けられてきた。


[[1986年]]5月、司家内部の不祥事により、25世吉田追風と[[栃錦清隆|春日野理事長]](当時)との会談で、吉田家の横綱授与の儀式を協会委ね、当面は協会との関係を中断する旨を双方了解した。
[[1986年]]5月、司家内部の不祥事により、25世吉田追風と[[栃錦清隆|春日野理事長]](当時)との会談で、吉田家の横綱授与の儀式を全面的に協会へと委ね、当面は協会との関係を中断する旨を双方了解した。
なお、[[1983年]]推挙の第59代横綱[[隆の里俊英]]までは司家も推挙式に臨席し、毎年十一月場所後に司家の土俵での奉納土俵入りが行われていたが、関係中断によって1986年7月に推挙の第60代横綱[[北尾光司|双羽黒光司]]以降、司家は推挙式には臨席せず、司家土俵での土俵入りも事実上の廃止となり、行われていない。これに伴い、吉田家が[[学生横綱]]に絹手綱を授与する儀礼も中止されたまま、事実上廃止されている。
なお、[[1983年]]7月に推挙の第59代横綱[[隆の里俊英]]までは司家も推挙式に臨席し、毎年十一月場所後に司家の土俵での奉納土俵入りが行われていたが、関係中断によって1986年7月に推挙の第60代横綱[[北尾光司|双羽黒光司]]以降、司家は推挙式には臨席せず、司家土俵での土俵入りも事実上の廃止となり、行われていない。これに伴い、吉田家が[[学生横綱]]に絹手綱を授与する儀礼も中止されたまま、事実上廃止されている。


また[[2008年]]には、熊本市内の司家の土地・建物も穴吹工務店([[高松市]])に売却されており、跡地には[[マンション]]が建設された。敷地内に「吉田司家跡」の[[石碑]]が存在する。
また[[2008年]]には、熊本市内の司家の土地・建物も穴吹工務店([[高松市]])に売却されており、跡地には[[マンション]]が建設された。敷地内に「吉田司家跡」の[[石碑]]が存在する。

2013年11月21日 (木) 07:25時点における版

常陸山(左)と2代梅ヶ谷(右)に立合いを指導する二十三世吉田追風(中央)

吉田司家(よしだつかさけ)は、現在まで800年以上の歴史を持つ、相撲司家である。

概要

志賀清林を祖とする志賀氏の断絶後、志賀氏に代々受け継がれてきた故実・伝書などを受け継いだ初代、吉田家次(吉田豊後守 ぶんごのかみ)から始まり、相撲の宗家として代々「追風」のを名乗る。元来、京都二条家に奉公し節会相撲の行事官として務めていた。その後、二条家の許しを受け、細川綱利に招聘され熊本藩に仕え、武家奉公をした。以来、熊本県熊本市に住む。相撲に関する全権は、後鳥羽天皇より委ねられたという。

江戸時代には、勧進相撲が取り行われるようになり、19代吉田追風は横綱制度を考案し1789年(寛政元年)11月、谷風小野川横綱を免許した。

1791年(寛政3年)および1794年(寛政6年)に、11代将軍徳川家斉上覧相撲を奉仕し[1]、武家相撲の作法および土俵の登場・礼式などすべての相撲の様式を定めた。以来江戸時代を通じて、横綱免許はすべて吉田司家によって授与されていた。また、行司の最高位である立行司の免許も吉田司家が発行していた。

1877年、西南戦争において23代吉田善門は西郷隆盛率いる反乱軍に従軍し戦いに敗れた後、熊本に帰り暫く謹慎していたが1882年7月東京相撲会所と交わした約款証書に基づいて梅ヶ谷藤太郎(初代)に横綱免許状を授与した。その反面、京都の五条家が相撲の家元と称し江戸末期からあちこちで横綱免許を出していたことがあった。

明治維新の中で相撲廃止論が起こったとき、23世 吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。そして1908年5月、九段靖国神社の拝殿に相撲協会年寄、幕内、十両以上の力士、並びに足袋免許以上の総参集を求め奮起の一渇を与え、1909年6月の両国国技館の新設に向かったのである。そして1925年8月相撲協会取締出羽海梶之助から財団法人化申請で相談を受けていた吉田善門は要職の一部を相撲協会の外部からと助言し、同年12月文部大臣岡田良平から財団法人の認証を受けた。会長には陸軍大将福田雅太郎、理事長には元陸軍主計中将が就任した。

一方、大坂相撲には長らく立行司免許のみを発行し横綱免許は発行していなかったが明治に入り若嶌權四郎に横綱免許を発行、大木戸森右エ門の横綱問題で1度は大坂を破門するも後に和解成立により追認、これに大錦大五郎宮城山福松を加えた4人の吉田司家の免許を持つ公認横綱が登場した。

第40代横綱東富士欽壹までは吉田司家による横綱本免許状授与式(仮免許は、司家の主君であった細川家の東京小石川の別邸で取り行われた)が続いた。しかし、司家24世追風長善が不祥事を起こし1951年11月に引退、当時7歳の長孝が25世を継いだが、日本相撲協会は司家代表者と協議した末、永年にわたる司家の権限を変革し、第41代横綱千代の山雅信以降は協会が自主的に横綱推挙を行なうことになり、免許権を協会に移譲し、司家は明治神宮での横綱推挙式に臨席し横綱及び故実書一巻を授与するだけとなった。しかし三役格以上の行司は熊本市の司家で行司免許を授けられてきた。

1986年5月、司家内部の不祥事により、25世吉田追風と春日野理事長(当時)との会談で、吉田家の横綱授与の儀式を全面的に協会へと委ね、当面は協会との関係を中断する旨を双方了解した。 なお、1983年7月に推挙の第59代横綱隆の里俊英までは司家も推挙式に臨席し、毎年十一月場所後に司家の土俵での奉納土俵入りが行われていたが、関係中断によって1986年7月に推挙の第60代横綱双羽黒光司以降、司家は推挙式には臨席せず、司家土俵での土俵入りも事実上の廃止となり、行われていない。これに伴い、吉田家が学生横綱に絹手綱を授与する儀礼も中止されたまま、事実上廃止されている。

また2008年には、熊本市内の司家の土地・建物も穴吹工務店(高松市)に売却されており、跡地にはマンションが建設された。敷地内に「吉田司家跡」の石碑が存在する。

現在、吉田司家は相撲界への復帰を目指して活動している。

吉田司家に伝わる団扇や伝書等

  • 吉田司家の故実によると、726年(神亀3年)の禁じ手制定以前について「相撲の古法は突く殴る蹴るの三手なり」とある。
  • 志賀氏から受け継いだ相撲の故実伝書後鳥羽天皇より勅賜の「獅子王の団扇」・「木剣」・正親町天皇勅賜の「マカロウの団扇」・関白二条家晴良公下賜の「一味清風」の団扇・豊臣秀吉公下賜の「日月団扇」・徳川家康公下賜の「葡萄団扇」・仏法即相撲・相撲行司大意之巻・相撲故実書・故実例式之巻・相撲十ヶ條・式字説・秘伝書・四十八手伝立・武家相撲開口・勧進相撲云立・方屋敷云立・そりの云立・四十八手解説・相撲来歴・相撲方諸国・相撲大意之巻・相撲故実三ヶ條・相撲行司大意之巻・相撲秘伝・横綱之故実・力士心得掟書・横綱之図・歴代横綱紀起請文・横綱免許願・その他、相撲関係古文書・資料等多数。

吉田司家の著本

  • 著者 吉田長孝『原点に還れ〜国技相撲廃止の危機を突破した男 吉田司家二十三世追風 吉田善門』発行 熊本出版文化会館 発売 創流出版 ISBN978-4-915796-88-3

関連資料

  • 神宮司庁『古事類苑 武技部』吉川弘文館
  • 荒木精之『相撲道と吉田司家』相撲司会
  • 肥後相撲協会編『本朝相撲司吉田家』
  • BABジャパン『月刊秘伝2007年12月号』

脚注

関連項目

外部リンク