「ファイサル1世 (イラク王)」の版間の差分

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[[ファイル:Coronation of Prince Faisal as King of Iraq, 1921.jpg|thumb|left|220px|イラク国王戴冠式のファイサル1世(1921年)]]
{{commonscat|Faisal I of Iraq|ファイサル1世}}
[[1921年]]3月に始まった{{仮リンク|カイロ会議 (1921年)|en|Cairo Conference (1921)|label=カイロ会議}}で、[[ガートルード・ベル]]らの主導する[[イギリス委任統治領メソポタミア]]創設と当時36歳のファイサルの国王即位が決定され、5月に彼はいくつかの留保とともにイラク王の立場を受け入れた。同年6月にイラクに上陸し、数週間のうちに「国民投票」で96%の支持を得て、8月23日に即位する。当時、ファイサルへの熱狂の欠如にかかわらず、他の代替案がなかったこともあり、組織的な反対は起こらなかったという。なお、イラクの[[シーア派]]にとっては第二代[[イマーム]]の[[ハサン・イブン・アリー|ハサン]]の子孫にあたるが、イラク国内にはハーシム家、特に[[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン]]の子孫であるフセイニー家の子孫が多数存在するために特別尊敬されることはなかった。
 
[[1922年]]に{{仮リンク|イギリス・イラク条約|en|Anglo-Iraqi Treaty|label=イギリス=イラク条約}}に反対する勢力を支援したために初代[[イラクの首相|イラク首相]]の{{仮リンク|アブドゥッラフマーン・ガイラーニー|en|Abd Al-Rahman Al-Gillani}}は辞任した。しかし8月にファイサルは[[虫垂炎]]を患い、翌1922年9月まで公務から離れた。ファイサルが闘病中の間に起こった、[[キッチナー・コックス]]([[:en:Percy Cox|en]])による条約反対派への弾圧により、イギリスの条約への強固な意志を思い知ったファイサルは、ガイラーニーを首相に復帰させて条約への支持を宣言した。[[1924年]]6月にイギリス=イラク条約をイラク側が批准。
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