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[[1909年]]8月、米国実業界の招聘による渡米実業団に参加した実業家の[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎(初代)]]は、[[ジョン・ロックフェラー|ロックフェラー]]など[[アメリカ合衆国|合衆国]]の著名財界人が私財を投じて公共事業に尽力している実態に触れ、育英事業への志を深くするに至った。帰国後、根津は同じく実業家として親交のあった[[宮島清次郎]]・[[正田貞一郎]]らにこの計画を相談し、さらに[[本間則忠]]・[[平田東助]]<ref>平田が総裁を務める臨時教育会議は大正期の教育行政において学制改革の方向を審議・答申する政府の諮問機関として[[1917年]]に設置され、官立([[国立学校|国立]])のみならず[[公立学校|公立]]・[[私立|私立]]の[[旧制高等学校|高等学校(旧制)]]の設立を認める方針を確認していた。[http://www.musashigakuen.jp/commemoration_room/exhibition 「展示案内|創立まで」]参照(2013年6月6日(JTC)閲覧)。</ref>・[[一木喜徳郎]]・[[岡田良平]]・[[山川健次郎]]・[[北条時敬|北條時敬]]らとともに、事業の中核として設立されるべき学校の構想について協議が重ねられ、[[旧制中学校|旧制中学]]と[[旧制高等学校|旧制高校]]を併せ持つ[[旧制高等学校|旧制7年制高等学校]]が適当であるとの結論に至った<ref>[[1918年]]の[[高等学校令#第二次高等学校令|改正高等学校令]]によって、従来修業年限3年であった(高等科=大学予科のみの)高等学校に加え、[[旧制中学校]]に相当する尋常科4年を加えた修業年限7年の高等学校の設立が認められていた。</ref>。そして[[1921年]]7月には根津の寄付した約3,600,000円相当の土地・株式・現金を資産に、学校の経営母体として根津自身を理事長とする「'''[[財団法人]]根津育英会'''」の設立が申請され、9月に設立認可を受けた。設立当初の育英会の理事・評議員となったのは、先述の宮島・正田・本間・平田・一木・岡田・山川・北條のほか[[根津啓吉]]・[[佐々木吉三郎]]である。財閥総帥の個人的な資金拠出によって私立学校が設立されるというニュースは「'''一世一代の大奮発'''」として大きく報じられ、当時の社会を驚かせた<ref>前掲「展示案内|創立まで」参照。</ref>。同年末には育英会が設立を申請していた[[武蔵高等学校 (旧制)|武蔵高等学校]]の設立認可が下り、翌[[1922年]]4月、日本初の私立・7年制の旧制高校として開校した。同校は7年一貫教育を掲げる独特の教育方針で知られ、多数の[[東京大学|東京帝国大学]]進学者を出した。
[[1909年]]8月、米国実業界の招聘による渡米実業団に参加した実業家の[[根津嘉一郎 (初代)|根津嘉一郎(初代)]]は、[[ジョン・ロックフェラー|ロックフェラー]]など[[アメリカ合衆国|合衆国]]の著名財界人が私財を投じて公共事業に尽力している実態に触れ、育英事業への志を深くするに至った。帰国後、根津は同じく実業家として親交のあった[[宮島清次郎]]・[[正田貞一郎]]らにこの計画を相談し、さらに[[本間則忠]]・[[平田東助]]<ref>平田が総裁を務める臨時教育会議は大正期の教育行政において学制改革の方向を審議・答申する政府の諮問機関として[[1917年]]に設置され、官立([[国立学校|国立]])のみならず[[公立学校|公立]]・[[私立|私立]]の[[旧制高等学校|高等学校(旧制)]]の設立を認める方針を確認していた。[http://www.musashigakuen.jp/commemoration_room/exhibition 「展示案内|創立まで」]参照(2013年6月6日(JTC)閲覧)。</ref>・[[一木喜徳郎]]・[[岡田良平]]・[[山川健次郎]]・[[北条時敬|北條時敬]]らとともに、事業の中核として設立されるべき学校の構想について協議が重ねられ、[[旧制中学校|旧制中学]]と[[旧制高等学校|旧制高校]]を併せ持つ[[旧制高等学校|旧制7年制高等学校]]が適当であるとの結論に至った<ref>[[1918年]]の[[高等学校令#第二次高等学校令|改正高等学校令]]によって、従来修業年限3年であった(高等科=大学予科のみの)高等学校に加え、[[旧制中学校]]に相当する尋常科4年を加えた修業年限7年の高等学校の設立が認められていた。</ref>。そして[[1921年]]7月には根津の寄付した約3,600,000円相当の土地・株式・現金を資産に、学校の経営母体として根津自身を理事長とする「'''[[財団法人]]根津育英会'''」の設立が申請され、9月に設立認可を受けた。設立当初の育英会の理事・評議員となったのは、先述の宮島・正田・本間・平田・一木・岡田・山川・北條のほか[[根津啓吉]]・[[佐々木吉三郎]]である。財閥総帥の個人的な資金拠出によって私立学校が設立されるというニュースは「'''一世一代の大奮発'''」として大きく報じられ、当時の社会を驚かせた<ref>前掲「展示案内|創立まで」参照。</ref>。同年末には育英会が設立を申請していた[[武蔵高等学校 (旧制)|武蔵高等学校]]の設立認可が下り、翌[[1922年]]4月、日本初の私立・7年制の旧制高校として開校した。同校は7年一貫教育を掲げる独特の教育方針で知られ、多数の[[東京大学|東京帝国大学]]進学者を出した。


根津は創立者として育英会・武蔵高校に膨大な寄付を行いその事業を支えたが、彼の死後、戦後初期には東池袋にあった約12,600坪の所有地(通称・根樟山)の売却や有価証券の減価などにより、育英会の財政基盤は弱体化した。そうした事情を背景に、同時期の[[学制改革]]に際して旧制武蔵高校の教授会から、[[新制大学]]設立の主張がなされると、育英会は宮島清次郎理事を中心に、旧制武蔵高校を[[新制高等学校|新制高校]]・[[新制中学校|中学]]に改編することを主張して対立した<ref>[http://shirakiji.net/3-04-hoshino2.html 武蔵大学60年の歩み]「新制武蔵大学由誕生は順調だったのでしょうか」(ママ)参照。2013年6月6日(JTC)閲覧。</ref>。しかし結局のところ両者は妥協し、[[1948年]]から[[1949年]]にかけて新制の[[武蔵中学校・高等学校|武蔵中学校]]・[[武蔵中学校・高等学校|武蔵高等学校]]および[[武蔵大学]]が発足し、また育英会自体も[[1951年]]、[[私立学校法]](1949年制定)に基づく'''学校法人へと改編'''された。なお、武蔵大学発足にさいし、[[文理学部]]ではなく[[経済学部]]1学部での発足という形になったのは、育英会(理事会)の意向を考慮したことによるものであった<ref>他の多くの旧制高等学校は単独で新制大学に昇格することが困難であったため、統合された新制大学の文理学部を教授陣の受け皿とするのが一般的であった。</ref>。新制移行後しばらくの間、旧制以来の経緯もあって武蔵大と武蔵高・中は教学・事務などの組織が渾然一体となっており<ref>[http://shirakiji.net/3-04-hoshino3.html 武蔵大学60年の歩み]「新制の大学・高校・中学の関係はどうだったのでしょうか」参照。</ref>、大学学長が同時に高校・中学の校長を兼任することが戦後長く続いていたが、[[1975年]]に至って大学の学長職と高校・中学の校長職を分離し、これらを統括する役職として「学園長」が設置される改革がなされ、[[正田建次郎]]が初代学園長に就任した。[[2013年]]には「'''学校法人根津育英会武蔵学園'''」への改称がなされている。
根津は創立者として育英会・武蔵高校に膨大な寄付を行いその事業を支えたが、彼の死後、戦後初期には東池袋にあった約12,600坪の所有地(通称・根樟山)の売却や有価証券の減価などにより、育英会の財政基盤は弱体化した。同時期の[[学制改革]]に際しては、育英会顧問を務めていた[[天野貞祐]]([[第一高等学校 (旧制)|旧制一高]]校長)・[[安倍能成]]([[学習院]]院長)・[[和辻哲郎]]らが[[宮本和吉]]武高校長とともに、東京連合大学を共立する構想が出された。これは、同じ私立旧制高等学校であった成蹊・成城・[[学習院高等科 (旧制)|学習院]]とともに4校で緩やかなカレッジ連合を形成するというものであったが、4校の間で調整が進まず、結局実現はみなかった。その後、旧制武蔵高校の教授会から、単独での[[新制大学]]設立の主張がなされると、育英会は宮島清次郎理事を中心に、財政難を理由に旧制武蔵高校を[[新制高等学校|新制高校]]・[[新制中学校|中学]]に改編することを主張して対立した<ref>[http://shirakiji.net/3-04-hoshino2.html 武蔵大学60年の歩み]「新制武蔵大学由誕生は順調だったのでしょうか」(ママ)参照。2013年6月6日(JTC)閲覧。</ref>。しかし結局のところ両者は妥協し、[[1948年]]から[[1949年]]にかけて新制の[[武蔵中学校・高等学校|武蔵中学校]]・[[武蔵中学校・高等学校|武蔵高等学校]]および[[武蔵大学]]が発足し、また育英会自体も[[1951年]]、[[私立学校法]](1949年制定)に基づく'''学校法人へと改編'''された。なお、武蔵大学発足にさいし、[[文理学部]]ではなく[[経済学部]]1学部での発足という形になったのは、育英会(理事会)の意向を考慮したことによるものであった<ref>他の多くの旧制高等学校は単独で新制大学に昇格することが困難であったため、統合された新制大学の文理学部を教授陣の受け皿とするのが一般的であった。</ref>。新制移行後しばらくの間、旧制以来の経緯もあって武蔵大と武蔵高・中は教学・事務などの組織が渾然一体となっており<ref>[http://shirakiji.net/3-04-hoshino3.html 武蔵大学60年の歩み]「新制の大学・高校・中学の関係はどうだったのでしょうか」参照。</ref>、大学学長が同時に高校・中学の校長を兼任することが戦後長く続いていたが、[[1975年]]に至って大学の学長職と高校・中学の校長職を分離し、これらを統括する役職として「学園長」が設置される改革がなされ、[[正田建次郎]]が初代学園長に就任した。[[2013年]]には「'''学校法人根津育英会武蔵学園'''」への改称がなされている。


=== 設立当初の理事・評議員たち ===
=== 設立当初の理事・評議員たち ===
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* [[1922年]]4月:同校の開校。初代校長は[[一木喜徳郎]]。
* [[1922年]]4月:同校の開校。初代校長は[[一木喜徳郎]]。
* [[1948年]](昭和23年)4年:[[学制改革]]による[[新制高等学校|新制]][[武蔵中学校・高等学校|武蔵高等学校]]発足。
* [[1948年]](昭和23年)4年:[[学制改革]]による[[新制高等学校|新制]][[武蔵中学校・高等学校|武蔵高等学校]]発足。
* 1948年:この年、育英会顧問の[[天野貞祐]]・[[安倍能成]]・[[和辻哲郎]]らにより「東京連合大学」共立構想が出されるも挫折。
* [[1949年]](昭和24年)2月:[[新制大学|新制]][[武蔵大学]]設立認可(4月開学)。
* [[1949年]](昭和24年)2月:[[新制大学|新制]][[武蔵大学]]設立認可(4月開学)。
* [[1949年]](昭和24年)4月:[[新制中学校|新制]][[武蔵中学校・高等学校|武蔵中学校]]発足。
* [[1949年]](昭和24年)4月:[[新制中学校|新制]][[武蔵中学校・高等学校|武蔵中学校]]発足。

2013年6月20日 (木) 17:43時点における版

学校法人根津育英会武蔵学園
Nezu Educational Foundation
法人番号 4011605000454 ウィキデータを編集
創立者 根津嘉一郎
理事長 根津公一
副理事長 有馬朗人
専務理事 小林米三
所属学校 武蔵大学
武蔵中学校・高等学校
所在地 東京都練馬区豊玉上一丁目26番1号
プロジェクト:学校/学校法人の記事について
Portal:教育
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学校法人根津育英会武蔵学園(がっこうほうじんねづいくえいかいむさしがくえん)は、東京都練馬区に本部を置く学校法人

概要

東武鉄道の社長を務め甲州財閥総帥としても知られる実業家・初代根津嘉一郎の寄付により創立された。学制改革により他の旧制高等学校が新制大学に移行するなか唯一、新制大学並びに新制中学校及び新制高等学校を併置したことで知られる。

沿革

1909年8月、米国実業界の招聘による渡米実業団に参加した実業家の根津嘉一郎(初代)は、ロックフェラーなど合衆国の著名財界人が私財を投じて公共事業に尽力している実態に触れ、育英事業への志を深くするに至った。帰国後、根津は同じく実業家として親交のあった宮島清次郎正田貞一郎らにこの計画を相談し、さらに本間則忠平田東助[1]一木喜徳郎岡田良平山川健次郎北條時敬らとともに、事業の中核として設立されるべき学校の構想について協議が重ねられ、旧制中学旧制高校を併せ持つ旧制7年制高等学校が適当であるとの結論に至った[2]。そして1921年7月には根津の寄付した約3,600,000円相当の土地・株式・現金を資産に、学校の経営母体として根津自身を理事長とする「財団法人根津育英会」の設立が申請され、9月に設立認可を受けた。設立当初の育英会の理事・評議員となったのは、先述の宮島・正田・本間・平田・一木・岡田・山川・北條のほか根津啓吉佐々木吉三郎である。財閥総帥の個人的な資金拠出によって私立学校が設立されるというニュースは「一世一代の大奮発」として大きく報じられ、当時の社会を驚かせた[3]。同年末には育英会が設立を申請していた武蔵高等学校の設立認可が下り、翌1922年4月、日本初の私立・7年制の旧制高校として開校した。同校は7年一貫教育を掲げる独特の教育方針で知られ、多数の東京帝国大学進学者を出した。

根津は創立者として育英会・武蔵高校に膨大な寄付を行いその事業を支えたが、彼の死後、戦後初期には東池袋にあった約12,600坪の所有地(通称・根樟山)の売却や有価証券の減価などにより、育英会の財政基盤は弱体化した。同時期の学制改革に際しては、育英会顧問を務めていた天野貞祐旧制一高校長)・安倍能成学習院院長)・和辻哲郎らが宮本和吉武高校長とともに、東京連合大学を共立する構想が出された。これは、同じ私立旧制高等学校であった成蹊・成城・学習院とともに4校で緩やかなカレッジ連合を形成するというものであったが、4校の間で調整が進まず、結局実現はみなかった。その後、旧制武蔵高校の教授会から、単独での新制大学設立の主張がなされると、育英会は宮島清次郎理事を中心に、財政難を理由に旧制武蔵高校を新制高校中学に改編することを主張して対立した[4]。しかし結局のところ両者は妥協し、1948年から1949年にかけて新制の武蔵中学校武蔵高等学校および武蔵大学が発足し、また育英会自体も1951年私立学校法(1949年制定)に基づく学校法人へと改編された。なお、武蔵大学発足にさいし、文理学部ではなく経済学部1学部での発足という形になったのは、育英会(理事会)の意向を考慮したことによるものであった[5]。新制移行後しばらくの間、旧制以来の経緯もあって武蔵大と武蔵高・中は教学・事務などの組織が渾然一体となっており[6]、大学学長が同時に高校・中学の校長を兼任することが戦後長く続いていたが、1975年に至って大学の学長職と高校・中学の校長職を分離し、これらを統括する役職として「学園長」が設置される改革がなされ、正田建次郎が初代学園長に就任した。2013年には「学校法人根津育英会武蔵学園」への改称がなされている。

設立当初の理事・評議員たち

一木以下は当時の教育界の重鎮・第一人者とされる人物であった。

年表

歴代理事長・学園長

理事長

学園長

武蔵大学学長 / 武蔵高等学校・中学校校長(1949〜75) - 以下、兼任期のみの在任期間を示す。

武蔵学園学園長(1975〜)

文化財

千川上水調査アルバム
旧制武蔵高等学校交友会文化部が、1938年(昭和13年) - 1941年(昭和16年)に調査した千川上水の記録。練馬区登録有形文化財2005年登録)。武蔵学園記念室が保持。

関連項目

脚注

  1. ^ 平田が総裁を務める臨時教育会議は大正期の教育行政において学制改革の方向を審議・答申する政府の諮問機関として1917年に設置され、官立(国立)のみならず公立私立高等学校(旧制)の設立を認める方針を確認していた。「展示案内|創立まで」参照(2013年6月6日(JTC)閲覧)。
  2. ^ 1918年改正高等学校令によって、従来修業年限3年であった(高等科=大学予科のみの)高等学校に加え、旧制中学校に相当する尋常科4年を加えた修業年限7年の高等学校の設立が認められていた。
  3. ^ 前掲「展示案内|創立まで」参照。
  4. ^ 武蔵大学60年の歩み「新制武蔵大学由誕生は順調だったのでしょうか」(ママ)参照。2013年6月6日(JTC)閲覧。
  5. ^ 他の多くの旧制高等学校は単独で新制大学に昇格することが困難であったため、統合された新制大学の文理学部を教授陣の受け皿とするのが一般的であった。
  6. ^ 武蔵大学60年の歩み「新制の大学・高校・中学の関係はどうだったのでしょうか」参照。
  7. ^ 「【国登録有形文化財】旧根津家住宅主屋」「山梨の歴史(大正8年(1919)~14年(1925))」参照(2013年6月19日(JTC)閲覧)。
  8. ^ 大滝則忠「教育界の先覚者 本間則忠のこと」参照(2013年6月19日(JTC)閲覧)。
  9. ^ コトバンク「佐々木吉三郎」。2013年6月19日(JTC)閲覧。

外部リンク