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'''ハイリゲンダム''' (Heiligendamm) は、[[ドイツ連邦共和国]][[メクレンブルク=フォアポンメルン州]]の[[バルト海]]沿岸[[ロストック郡]][[バート・ドベラン]]市にあるリゾート地。[[キュールンクスボルン]] (Kühlungsborn) と[[バート・ドベラン]]市街とを結ぶ[[ナローゲージ]]蒸気鉄道線であるモリー鉄道 (Molli) の中間点にあたる。[[2007年]]に開催された[[第33回主要国首脳会議]]([[主要国首脳会議|サミット]])の開催地である。 |
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ハイリゲンダムはドイツのバルト海沿岸における最古の海岸[[リゾート]]地であり、貴族階級と上流社交界の優雅な会合場所として開発された。古風な建物が遊歩道沿いに並んでいるため、「海沿いの白い町」と呼ばれている。 |
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[[1793年]]にこの町の最初の客として訪れ、その人気を高めた要因の1つともなった人物は、[[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン大公国]]の[[フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ1世]] |
[[1793年]]にこの町の最初の客として訪れ、その人気を高めた要因の1つともなった人物は、[[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン大公国]]の[[フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ1世]] (Friedrich Franz I) だった。翌年、Johann Christoph、Heinrich von Seydwitz、Carl Theodor Severin、Gustav Adolph Demmler らは[[1793年]]から[[1870年]]にかけて、入浴と宿泊を目的とした美しい統合施設を設立した。その設立により、ハイリゲンダムはその後ドイツで最も優雅な海岸リゾート地となっていった。[[1930年代]]に入ると、[[ロシア皇帝]]の家族をはじめ、ヨーロッパの上流貴族たちはこの地を夏の避暑地として使用した。 |
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[[第2次世界大戦]]後は、[[サナトリウム]]や回復病棟として使われた。だが、[[戦後]]の[[ドイツ民主共和国]]の統治下で、有名な建物のいくつかが破壊され、より実用的な建物へと置き換えられた。[[ドイツ再統一]]後は投資家グループが多くの建物を買い取り刷新を図った。[[2003年]]の春には、新しい建物である[[ケンピンスキー・グランドホテル]]が開業した。開発により小さな裏通りが撤去されたため、居住者との間で対立が広がっている。 |
[[第2次世界大戦]]後は、[[サナトリウム]]や回復病棟として使われた。だが、[[戦後]]の[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の統治下で、有名な建物のいくつかが破壊され、より実用的な建物へと置き換えられた。[[ドイツ再統一]]後は投資家グループが多くの建物を買い取り刷新を図った。[[2003年]]の春には、新しい建物である[[ケンピンスキー・グランドホテル]]が開業した。開発により小さな裏通りが撤去されたため、居住者との間で対立が広がっている。 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2013年4月19日 (金) 06:54時点における版
ハイリゲンダム (Heiligendamm) は、ドイツ連邦共和国メクレンブルク=フォアポンメルン州のバルト海沿岸ロストック郡バート・ドベラン市にあるリゾート地。キュールンクスボルン (Kühlungsborn) とバート・ドベラン市街とを結ぶナローゲージ蒸気鉄道線であるモリー鉄道 (Molli) の中間点にあたる。2007年に開催された第33回主要国首脳会議(サミット)の開催地である。
歴史
ハイリゲンダムはドイツのバルト海沿岸における最古の海岸リゾート地であり、貴族階級と上流社交界の優雅な会合場所として開発された。古風な建物が遊歩道沿いに並んでいるため、「海沿いの白い町」と呼ばれている。
1793年にこの町の最初の客として訪れ、その人気を高めた要因の1つともなった人物は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国のフリードリヒ・フランツ1世 (Friedrich Franz I) だった。翌年、Johann Christoph、Heinrich von Seydwitz、Carl Theodor Severin、Gustav Adolph Demmler らは1793年から1870年にかけて、入浴と宿泊を目的とした美しい統合施設を設立した。その設立により、ハイリゲンダムはその後ドイツで最も優雅な海岸リゾート地となっていった。1930年代に入ると、ロシア皇帝の家族をはじめ、ヨーロッパの上流貴族たちはこの地を夏の避暑地として使用した。
第2次世界大戦後は、サナトリウムや回復病棟として使われた。だが、戦後の東ドイツの統治下で、有名な建物のいくつかが破壊され、より実用的な建物へと置き換えられた。ドイツ再統一後は投資家グループが多くの建物を買い取り刷新を図った。2003年の春には、新しい建物であるケンピンスキー・グランドホテルが開業した。開発により小さな裏通りが撤去されたため、居住者との間で対立が広がっている。