「ハイリゲンダム」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Addbot (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 21 件をウィキデータ上の d:q164690 に転記
推敲
2行目: 2行目:
[[Image:Heiligendamm_Gedenkstein.jpg|thumb|right]]
[[Image:Heiligendamm_Gedenkstein.jpg|thumb|right]]


'''ハイリゲンダム'''(Heiligendamm)は、[[ドイツ]][[メクレンブルク=フォアポンメルン州]]の[[バルト海]]沿岸にあるBad Doberan帯の小さな町である。Kühlungsbornと[[バート・ドベラン]]Landkreis(地方自治区)の間にある"Bath Highway"沿っている。[[2007年]]に開催された[[第33回主要国首脳会議]]([[主要国首脳会議|サミット]])の開催地である。
'''ハイリゲンダム''' (Heiligendamm) は、[[ドイツ連邦共和国]][[メクレンブルク=フォアポンメルン州]]の[[バルト海]]沿岸[[ロストック郡]][[バート・ドベラン]]市にあるリゾート地。[[キュールンクスボルン]] (Kühlungsborn) と[[バート・ドベラン]]市街を結ぶ[[ナローゲージ]]蒸気鉄道線であるモリー鉄道 (Molli) の中間点あたる。[[2007年]]に開催された[[第33回主要国首脳会議]]([[主要国首脳会議|サミット]])の開催地である。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
ハイリゲンダムはドイツの[[バルト海]]沿岸における最古の海岸[[リゾート]]地であり、貴族階級と上流社交界の優雅な会合場所として開発された。古風な建物が遊歩道沿いに並んでいるため、「海沿いの白い町」と呼ばれている。
ハイリゲンダムはドイツのバルト海沿岸における最古の海岸[[リゾート]]地であり、貴族階級と上流社交界の優雅な会合場所として開発された。古風な建物が遊歩道沿いに並んでいるため、「海沿いの白い町」と呼ばれている。


[[1793年]]にこの町の最初の客として訪れ、その人気を高めた要因の1つともなった人物は、[[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン大公国]]の[[フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ1世]](Friedrich Franz I)だった。翌年、Johann Christoph、Heinrich von Seydwitz、Carl Theodor Severin,、Gustav Adolph Demmlerらは[[1793年]]から[[1870年]]にかけて、入浴と宿泊を目的とした美しい統合施設を設立した。その設立により、ハイリゲンダムはその後ドイツで最も優雅な海岸リゾート地となっていった。[[1930年代]]に入ると、[[ロシア皇帝]]の家族をはじめ、ヨーロッパの上流貴族たちはこの地を夏の避暑地として使用した。
[[1793年]]にこの町の最初の客として訪れ、その人気を高めた要因の1つともなった人物は、[[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン大公国]]の[[フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ1世]] (Friedrich Franz I) だった。翌年、Johann Christoph、Heinrich von Seydwitz、Carl Theodor Severin、Gustav Adolph Demmler らは[[1793年]]から[[1870年]]にかけて、入浴と宿泊を目的とした美しい統合施設を設立した。その設立により、ハイリゲンダムはその後ドイツで最も優雅な海岸リゾート地となっていった。[[1930年代]]に入ると、[[ロシア皇帝]]の家族をはじめ、ヨーロッパの上流貴族たちはこの地を夏の避暑地として使用した。


[[第2次世界大戦]]後は、[[サナトリウム]]や回復病棟として使われた。だが、[[戦後]]の[[ドイツ民主共和国]]の統治下で、有名な建物のいくつかが破壊され、より実用的な建物へと置き換えられた。[[ドイツ再統一]]後は投資家グループが多くの建物を買い取り刷新を図った。[[2003年]]の春には、新しい建物である[[ケンピンスキー・グランドホテル]]が開業した。開発により小さな裏通りが撤去されたため、居住者との間で対立が広がっている。
[[第2次世界大戦]]後は、[[サナトリウム]]や回復病棟として使われた。だが、[[戦後]]の[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の統治下で、有名な建物のいくつかが破壊され、より実用的な建物へと置き換えられた。[[ドイツ再統一]]後は投資家グループが多くの建物を買い取り刷新を図った。[[2003年]]の春には、新しい建物である[[ケンピンスキー・グランドホテル]]が開業した。開発により小さな裏通りが撤去されたため、居住者との間で対立が広がっている。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2013年4月19日 (金) 06:54時点における版

ハイリゲンダム (Heiligendamm) は、ドイツ連邦共和国メクレンブルク=フォアポンメルン州バルト海沿岸ロストック郡バート・ドベラン市にあるリゾート地。キュールンクスボルン (Kühlungsborn) とバート・ドベラン市街とを結ぶナローゲージ蒸気鉄道線であるモリー鉄道 (Molli) の中間点にあたる。2007年に開催された第33回主要国首脳会議サミット)の開催地である。

歴史

ハイリゲンダムはドイツのバルト海沿岸における最古の海岸リゾート地であり、貴族階級と上流社交界の優雅な会合場所として開発された。古風な建物が遊歩道沿いに並んでいるため、「海沿いの白い町」と呼ばれている。

1793年にこの町の最初の客として訪れ、その人気を高めた要因の1つともなった人物は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国フリードリヒ・フランツ1世 (Friedrich Franz I) だった。翌年、Johann Christoph、Heinrich von Seydwitz、Carl Theodor Severin、Gustav Adolph Demmler らは1793年から1870年にかけて、入浴と宿泊を目的とした美しい統合施設を設立した。その設立により、ハイリゲンダムはその後ドイツで最も優雅な海岸リゾート地となっていった。1930年代に入ると、ロシア皇帝の家族をはじめ、ヨーロッパの上流貴族たちはこの地を夏の避暑地として使用した。

第2次世界大戦後は、サナトリウムや回復病棟として使われた。だが、戦後東ドイツの統治下で、有名な建物のいくつかが破壊され、より実用的な建物へと置き換えられた。ドイツ再統一後は投資家グループが多くの建物を買い取り刷新を図った。2003年の春には、新しい建物であるケンピンスキー・グランドホテルが開業した。開発により小さな裏通りが撤去されたため、居住者との間で対立が広がっている。

外部リンク