「南蛮胴」の版間の差分

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[[File:Sekigahara armour.jpg|180px|thumb|徳川家康の南蛮具足]]
'''南蛮胴'''(なんばんどう)は、ヨーロッパの胴鎧を16世紀から17世紀の日本において日本風に改造した[[鎧]]。またはそれを模して作られた鎧
 
== 概要 ==
#当時の西洋甲冑は個人の体格にあわせたオーダーメイドであり、他の者が着用すると動くのも困難であり、フルセットの甲冑を輸入した場合においても、それをそのまま使う事はできなかった。
#山岳地が多く、また城の形式の違いから、日本の武士は傾斜地や石垣をよじ登っての戦闘をする場合があり、西洋甲冑をそのまま使用する事ができなかった。
[[File:NanbanDo.jpg|180px|thumb|榊原康政所用の南蛮具足]]
 
その珍しさから[[徳川家康]]などの武将にも愛用されたが、重量が重く高価な鎧であった。
 
また、南蛮胴はその堅牢さを確かめ強度を誇るために、銃で試し撃ちすることが行われ、現存する遺品には銃弾の痕が残るものが存在する。和製南蛮胴でもこの試し撃ちが行われていたが、後には弾痕のような模様を彫りこんだ、見せかけのものも作成された。実戦での弾痕が残る遺品もあり、[[成瀬吉正]]所用南蛮胴がその好例である。
 
== 南蛮胴の伝来時期と現代メディアにおける扱い ==
[[File:Uesugi kenshin armor.jpg|180px|thumb|上杉謙信の南蛮具足]]
南蛮胴の愛用者としては、現代の映像作品娯楽メディアでは[[織田信長]]を欠かすことはできない。
 
しかし史料上では、1588年にポルトガル領[[ゴア州|ゴア]]のインド[[副王]](総督)より[[豊臣秀吉]]への外交文書([[妙法院#文化財|妙法院]]所蔵)とともに贈呈された目録上の甲冑が、確認できる最初の南蛮胴の伝来である<ref>この外交文書と贈答品は[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ|ヴァリニャーノ]]神父に託され、 [[天正遣欧少年使節|天正遣欧少年使節団]]も共に帰国した。日本([[長崎]])への到着が1590年7月、秀吉への謁見が1591年3月である。</ref>。秀吉が南蛮胴を使用または下賜した史料は残っておらず、1600年のリーフデ号によるものが記録上は最初の使用例となる。また[[明智光春]]所用とされる和製南蛮胴具足([[東京国立博物館]]所蔵)があるが、これも実際は[[17世紀]]のものと推定されている。
 
欧州各国船は敵対国との抗争と渡航先での不慮の事態に備えて、本来は商船であるリーフデ号のような船でも武具を積み込むのが常識の時代で、これはスペイン、ポルトガルから日本に渡航していた船舶も同様であった。これらの船から入手した可能性は全くないとは言い切れないが、そうした史料が現存していないのも事実である。
 
[[織田信雄]]の子孫[[天童藩]]織田家に伝来した、伝織田信長所用南蛮胴具足([[岐阜市歴史博物館]]所蔵)は、兜は信雄以降の時代、胴は江戸末期の作である。胴の作成時期は国替えで家中が騒然とした時期に重なり、家祖の威光を借りる目的があったという説がある。17世紀後半の作と推定される成瀬本『長篠合戦図屏風』([[犬山城白帝文庫]]所蔵)には、南蛮帽子形兜を家臣に持たせた信長が描かれている。これらのことから、江戸時代中には信長と南蛮胴のイメージが存在したと考えられている。
 
近年の映画作品において、[[黒澤明]]『[[影武者 (映画)|影武者]](1980年)』での織田信長のイメージは強く影響し、以後の映像作品、漫画、ゲームなどに、南蛮胴とマントの信長像が固定化することとなった。また、[[角川春樹]]『[[天と地と#映画|天と地と]](1990年)』の上映以降、[[上杉謙信]]と南蛮胴を結びつけるイメージも一部に流布された。

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