「飯泉喜内」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
本文改変、カテゴリ改変
編集の要約なし
3行目: 3行目:
藩主[[土屋彦直]]に仕えて、[[代官]]として民政を預かった。農政で一定の功績を残している。[[天保]]3年([[1832年]])脱藩して[[江戸]][[浅草]]の豪商の手代となる。のち[[旗本]][[曾我権右衛門]]の侍医[[飯泉春堂]]を娘婿に迎えて飯泉氏を名乗るようになる。
藩主[[土屋彦直]]に仕えて、[[代官]]として民政を預かった。農政で一定の功績を残している。[[天保]]3年([[1832年]])脱藩して[[江戸]][[浅草]]の豪商の手代となる。のち[[旗本]][[曾我権右衛門]]の侍医[[飯泉春堂]]を娘婿に迎えて飯泉氏を名乗るようになる。


[[嘉永]]5年([[1852年]])上京して[[三条実万]]の家士となって[[小林良典]]や[[村井正礼]]らと交流した。[[嘉永]]6年([[1853年]])[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航に際して『祈りの一言』を実万に建白して幕政を批判。安政4年([[1857年]])江戸へ戻るも、京都の同志と情報を交換していた。また[[将軍継嗣問題]]では[[橋本左内]]・[[梅田雲浜]]らと[[一橋派]]に属した。
[[嘉永]]5年([[1852年]])上京して[[三条実万]]の家士となって[[小林良典]]や[[村井正礼]]らと交流した。[[嘉永]]6年([[1853年]])[[マシュー・ペリー|ペリー]]来航に際して『祈りの一言』を実万に建白して幕政を批判。安政4年([[1857年]])江戸へ戻るも、京都の同志と情報を交換していた。また[[将軍継嗣問題]]では[[橋本左内]]・[[梅田雲浜]]らと[[一橋派]]に属した。


安政5年([[1858年]])[[真福寺 (東京都港区)|真福寺]]の[[ロシア帝国|ロシア]]人との接触を疑われて[[遠国奉行|下田奉行]]手付書役[[大沼又三郎]]に捕えられる。自宅からは数多の書類が押収され、その中に多くの志士との手紙などがあったことから[[安政の大獄]]に発展した。「安政の大獄」は明治以降に定着した呼称で、当時はこうした経緯から'''「飯泉喜内初筆一件」'''と呼ばれた。翌安政6年(1859年)左内・[[頼三樹三郎]]らとともに江戸[[千住]][[小塚原刑場]]で斬刑に処された。
安政5年([[1858年]])[[真福寺 (東京都港区)|真福寺]]の[[ロシア帝国|ロシア]]人との接触を疑われて[[遠国奉行|下田奉行]]手付書役[[大沼又三郎]]に捕えられる。自宅からは数多の書類が押収され、その中に多くの志士との手紙などがあったことから[[安政の大獄]]に発展した。「安政の大獄」は明治以降に定着した呼称で、当時はこうした経緯から'''「飯泉喜内初筆一件」'''と呼ばれた。翌安政6年(1859年)左内・[[頼三樹三郎]]らとともに江戸[[千住]][[小塚原刑場]]で斬刑に処された。
12行目: 12行目:
{{DEFAULTSORT:いいいすみ きない}}
{{DEFAULTSORT:いいいすみ きない}}
[[Category:江戸時代の武士]]
[[Category:江戸時代の武士]]
[[Category:江戸時代の青侍]]
[[Category:幕末の人物]]
[[Category:幕末の人物]]
[[Category:常陸国の人物]]
[[Category:常陸国の人物]]

2013年3月5日 (火) 03:41時点における版

飯泉 喜内(いいいずみ きない、文化2年(1805年) - 安政6年10月7日1859年11月1日))は、幕末土浦藩士。初め渡辺六蔵を名乗った。諱は唯明、のち友輔。別称・一蔵。

藩主土屋彦直に仕えて、代官として民政を預かった。農政で一定の功績を残している。天保3年(1832年)脱藩して江戸浅草の豪商の手代となる。のち旗本曾我権右衛門の侍医飯泉春堂を娘婿に迎えて飯泉氏を名乗るようになる。

嘉永5年(1852年)、上京して三条実万の家士となって小林良典村井正礼らと交流した。嘉永6年(1853年ペリー来航に際して『祈りの一言』を実万に建白して幕政を批判。安政4年(1857年)江戸へ戻るも、京都の同志と情報を交換していた。また将軍継嗣問題では橋本左内梅田雲浜らと一橋派に属した。

安政5年(1858年真福寺ロシア人との接触を疑われて下田奉行手付書役大沼又三郎に捕えられる。自宅からは数多の書類が押収され、その中に多くの志士との手紙などがあったことから安政の大獄に発展した。「安政の大獄」は明治以降に定着した呼称で、当時はこうした経緯から「飯泉喜内初筆一件」と呼ばれた。翌安政6年(1859年)左内・頼三樹三郎らとともに江戸千住小塚原刑場で斬刑に処された。

墓所は東京都荒川区南千住回向院