「ベンガル太守」の版間の差分

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===ムルシド・クリー・ハーンの活躍===
===ムルシド・クリー・ハーンの活躍===
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[[ファイル:Portrait of the Emperor Farrukh Siyar, 1715.jpg|thumb|right|250px|ファッルフシヤル]]

ベンガル地方政権の祖である[[ムルシド・クリー・ハーン]]の経歴を見ると、彼はもともと[[イラン人]]貴族の奴隷だったが、ムガル皇帝[[アウラングゼーブ]]に実力を認められ、その部下となった人物だった。
ベンガル地方政権の祖である[[ムルシド・クリー・ハーン]]の経歴を見ると、彼はもともと[[イラン人]]貴族の奴隷だったが、ムガル皇帝[[アウラングゼーブ]]に実力を認められ、その部下となった人物だった。


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===マラーターの略奪と国力の疲弊===
===マラーターの略奪と国力の疲弊===
[[File:Allavardi Xán.jpg|thumb|250px|right|アリー・ヴァルディー・ハーン]]
[[File:Allavardi Xán.jpg|thumb|250px|right|アリー・ヴァルディー・ハーン]]
[[Image:Fortwilliamplan2.jpg|right|250px|thumb|Plan (top-view) of Fort William, c. 1844|ウィリアム要塞]]


[[1741年]][[3月3日]]、太守アリー・ヴァルディー・ハーンは、攻め込んできた隣国[[オリッサ]]に勝ちその領土を奪ったが、敗れた[[オリッサ太守]]の[[ルスタム・ジャング]]は、[[マラーター同盟]]の[[ボーンスレー家]]に援助を求めた。
[[1741年]][[3月3日]]、太守アリー・ヴァルディー・ハーンは、攻め込んできた隣国[[オリッサ]]に勝ちその領土を奪ったが、敗れた[[オリッサ太守]]の[[ルスタム・ジャング]]は、[[マラーター同盟]]の[[ボーンスレー家]]に援助を求めた。
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[[6月23日]]明朝7時頃、先手を打ったクライヴは、プラッシー村に野営していたベンガル軍に攻撃を加え、ベンガル軍もすぐにこれに応戦し戦闘が始まった。
[[6月23日]]明朝7時頃、先手を打ったクライヴは、プラッシー村に野営していたベンガル軍に攻撃を加え、ベンガル軍もすぐにこれに応戦し戦闘が始まった。

ベンガル軍62,000は、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラの武将[[モーハン・ラール]]と[[ミール・マダン]]率いる歩兵5000と騎兵7000、太守の叔父ミール・ジャーファル率いる歩兵35,000と騎兵15,000であり、あとはフランスの援助である大砲53門と操作するフランス兵40であった。
ベンガル軍62,000は、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラの武将[[モーハン・ラール]]と[[ミール・マダン]]率いる歩兵5000と騎兵7000、太守の叔父ミール・ジャーファル率いる歩兵35,000と騎兵15,000であり、あとはフランスの援助である大砲53門と操作するフランス兵40であった。


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[[1763年]][[10月]]末、イギリス軍はパトナに攻めてきたが、ミール・カーシムは度重なる裏切りに絶望して戦意をなくし、[[アワド太守]]の[[シュジャー・ウッダウラ]]の保護を受けるために、隣接する[[アワド]]へと逃げた。
[[1763年]][[10月]]末、イギリス軍はパトナに攻めてきたが、ミール・カーシムは度重なる裏切りに絶望して戦意をなくし、[[アワド太守]]の[[シュジャー・ウッダウラ]]の保護を受けるために、隣接する[[アワド]]へと逃げた。


==ブクサールの戦い==
===ブクサールの戦い===
[[File:अवध के नवाब शुजाउद्दौला.jpg|thumb|right|230px|シュジャー・ウッダウラ]]

[[画像:Portrait1790s.jpg|thumb|right|230px|シャー・アーラム2世]]
ミール・カーシムはアワドに落ち延び、アワド太守シュジャー・ウッダウラの保護をうけ、元の状態に戻れるよう援助を約束され、同様にシュジャー・ウッダウラに保護されていたムガル帝国の皇帝[[シャー・アーラム2世]]とも合流した。
ミール・カーシムはアワドに落ち延び、アワド太守シュジャー・ウッダウラの保護をうけ、元の状態に戻れるよう援助を約束され、同様にシュジャー・ウッダウラに保護されていたムガル帝国の皇帝[[シャー・アーラム2世]]とも合流した。


こうして、ムガル皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成された。
こうして、ムガル皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成され、三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定し、[[1764年]][[10月22日]]三者連合軍40000はビハールとアワドの州境にあるブクサール(バクサルとも)でイギリス軍7000と会戦し(ブクサールの戦い)
三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定し、[[1764年]][[10月22日]]三者連合軍40000はビハールとアワドの州境にあるブクサール(バクサルとも)でイギリス軍7000と会戦した(ブクサールの戦い)。


しかし、ミール・カーシム軍は給料未払いで兵士に戦意がなく、皇帝軍は内通者があり兵が動かなかったため、実際はアワド太守の軍とイギリス軍との戦いで、戦いは1日で終結し、結果はイギリスの圧勝であった。
しかし、ミール・カーシム軍は給料未払いで兵士に戦意がなく、皇帝軍は内通者があり兵が動かなかったため、実際はアワド太守の軍とイギリス軍との戦いで、戦いは1日で終結し、結果はイギリスの圧勝であった。
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ここに、ベンガル太守の領有権は事実上失われ、ベンガル太守は単なる有名無実の肩書となり、ベンガルの植民地化は決定した。
ここに、ベンガル太守の領有権は事実上失われ、ベンガル太守は単なる有名無実の肩書となり、ベンガルの植民地化は決定した。


一方、前ベンガル太守ミール・カーシムは投獄されたのち釈放され、インド各地を転々と放浪し、[[1774年]]頃からデリーに住み、1777年5月8日に帝都デリーで死亡した(その困窮の度合いは凄まじく、彼の葬儀を行うために。
一方、前ベンガル太守ミール・カーシムは投獄されたのち釈放され、インド各地を転々と放浪し、[[1774年]]頃からデリーに住み、[[1777年]][[5月8日]]に帝都デリーで死亡した(その困窮の度合いは凄まじく、彼の葬儀を行うために。


===ベンガルの藩王国化とインド併合===
===ベンガルの藩王国化とインド併合===

2012年11月14日 (水) 16:03時点における版

ファイル:Coat of Arms of Nawabs of Bengal.PNG
ベンガル太守の紋章
ベンガル太守の居城
ベンガル太守の支配領域地図

ベンガル太守(- たいしゅ、Nawab of Bengal)とは、ムガル帝国の東インドベンガル地方(現在のバングラデシュ西ベンガル州ビハールの一部を指す)の地方長官、つまり太守ナワーブ)のことである。18世紀には、ビハールの大部分、オリッサ地方も支配した。首府はダッカムルシダーバードムンガー

設置

ベンガル太守の支配領域

ベンガル太守の役職は、ムガル帝国アクバルの治世、1576年ベンガル地方を支配していたベンガル・スルタン朝を滅ぼすとともに設置された。

それ以来、ベンガル太守はムガル帝国の一州を統治する地方長官として、皇帝の任命のもと、ダッカを首府にこの地を支配した。

ベンガル地方政権

ムルシド・クリー・ハーンの活躍

ムルシド・クリー・ハーン
ファッルフシヤル

ベンガル地方政権の祖であるムルシド・クリー・ハーンの経歴を見ると、彼はもともとイラン人貴族の奴隷だったが、ムガル皇帝アウラングゼーブに実力を認められ、その部下となった人物だった。

1690年代、ベンガルに深刻な反乱が起きると、アウラングゼーブは孫のアズィーム・ウッシャーンを新たなベンガル太守とし、ムルシド・クリー・ハーンを補佐役とした。

その後、1698年にアズィーム・ウッシャーンは反乱を鎮圧すると、アウラングゼーブの息子ら同様、いずれ争われるだろう帝位を狙うようになり、彼はベンガルにおいてさまざま手段で不正蓄財を企てるようになった。

そのため、清廉潔白なムルシド・クリー・ハーンは、太守の不正蓄財をやめさせるべく苦慮することとなり、1700年頃からベンガルにおいて改革を行い、古いザミーンダールを新興の自作農に変えたり、期限内に徴税、納税できないザミーンダールを厳罰に処し、逆に義務を果たすザミーンダールを優遇したりした。

そのうち、ムルシド・クリー・ハーンのほうが政治的手腕に優れていることが分かり、アウラングゼーブの了承を得て彼がベンガルを取り仕切るようになり、1704年には、ベンガルの行政府があったダッカから、ムルシダーバードへと遷都している。

1707年、皇帝アウラングゼーブが死ぬと、帝国では反乱が相次ぎ、これ以降帝国は衰運を歩むようになった。

1712年、皇帝バハードゥル・シャー1世の死後、その次男であったベンガル太守アズィーム・ウッシャーンは皇位継承戦争に参加するためベンガルから出陣したが、戦いに敗れて殺害された。

戦争後、皇帝となったジャハーンダール・シャーは悪政により人望を失い、アズィーム・ウッシャーンの遺児ファッルフシヤルはジャハーンダール・シャーを討つためベンガルを出陣し、1713年にジャハーンダール・シャーを討ち皇帝となった。

だが、ムルシド・クリー・ハーンはムガル帝国に対し、一応ベンガル地方の税収は払っており、1717年に皇帝ファッルフ・シヤルより、正式にベンガル太守(在位1717 - 1727)に任命された。

しかし、同年、ファッルフシヤルはイギリスに対し、ベンガルにおける関税の免除特権をあたえる勅令を出し、これはのちに地方政権との間で大きな問題となった。

独立

1724年、ムガル帝国の宰相アーサフ・ジャー(ニザーム・アルムルク)がデカンハイダラーバードで独立し、アワド太守サーダット・アリー・ハーンアワドで独立し、王朝を樹立するなど、ムガル帝国の広大な領土の解体は徐々に進んで言った。

1727年6月30日、ムルシド・クリー・ハーンが死ぬと、その娘婿で後継者シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーン(在位1727 - 1739)とムガル帝国に対し先代が律儀に払っていたベンガル地方の税収の納入を拒否し、ベンガルは実質的に独立した(ベンガル地方政権)。

ベンガルの独立はムガル帝国に打撃を与え、この豊かなベンガルからの収入が途絶えた帝国はますます財政難となった。

アリー・ヴァルディー・ハーンの太守位強奪

アリー・ヴァルディー・ハーン

1739年8月26日、シュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーンが死ぬと、その息子サルファラーズ・ハーン(在位1739 - 1740)が新たな太守となったが、その部下アリー・ヴァルディー・ハーンは太守位を狙うようになり、1740年3月に反旗を翻した。

同年4月29日、サルファラーズ・ハーンとアリー・ヴァルディー・ハーンの両軍は、ベンガル地方の小村ギリアで激突したが、サルファラーズ・ハーンは武将アーラム・チャンド裏切られて敗れ(ギリアの戦い)、殺された。

その後、アリー・ヴァルディー・ハーンは、ムガル帝国の皇帝ムハンマド・シャーにより、新たなベンガル太守(在位1740 - 1756)に任命された。

この点からすると、ベンガル地方政権はムガル帝国の主権を認めていたことになる。

マラーターの略奪と国力の疲弊

アリー・ヴァルディー・ハーン
ウィリアム要塞

1741年3月3日、太守アリー・ヴァルディー・ハーンは、攻め込んできた隣国オリッサに勝ちその領土を奪ったが、敗れたオリッサ太守ルスタム・ジャングは、マラーター同盟ボーンスレー家に援助を求めた。

これにより、マラーターはベンガルへと侵攻し、豊かなこの地方の物資を略奪しはじめたが、アリー・ヴァルディー・ハーンは初期の侵攻をなんとか食い止めた。だが、マラーターはこのベンガル略奪に味をしめ、ベンガルそのものが滅ばない程度に、毎年ベンガルのあらゆる場所へ、何度も何度も略奪を繰り返すようになった。

その後、1751年、ベンガル太守アリー・ヴァルディー・ハーンはマラーターと講和し、10年にも及ぶ略奪に終止符を打ったものの、ベンガルはオリッサをはじめとする領土を、マラーターに大きく割譲させられ、多額の賠償金も払わされ、今後はマラーターの軍事費として毎年120万ルピー払うことも約束させられた。

また、この略奪自体がベンガルの国力を大きく削り、この10年に及んだマラーターの略奪とその戦後賠償は、ベンガルをすっかり疲弊させた。

そして、17世紀以降、イギリスフランスはインド各地に拠点を築き、そのうちの一つであったベンガルの弱体化に目をつけ、18世紀にこの地で激しく争うことになった。

すでに、1740年代、イギリス東インド会社は、フランス東インド会社への対抗としてカルカッタウィリアム要塞の強化、増築を行っており、1744年には南インドで第1次カーナティック戦争が勃発し、双方が次にベンガルでの覇権を争うことは必至であった。

しかし、アリー・ヴァルディー・ハーンは、イギリスとフランスの貿易活動により、疲弊していたベンガルの経済が支えられていることを知っており、ベンガルにこれ以上要塞を建設しないことを条件に、これらの貿易活動を認めていた。

アリー・ヴァルディー・ハーンは、衰退の一途たどっていたムガル帝国が、イギリス、フランスを強制するだけの軍事力がないことを理解しており、彼自身は、

「蜂蜜を利用できる蜂も、巣に手を突っ込めば逆に刺し殺されることがある。」

と家臣に言い聞かせたとされる。

ベンガル太守の後継者争い

シラージュ・ウッダウラ

1756年4月1日、アリー・ヴァルディー・ハーンが死亡したことにより、ベンガル地方政権では深刻な後継者争いが起きた。

アリー・ヴァルディー・ハーンの死後、若く気性の激しいその孫シラージュ・ウッダウラ(在位1756 - 1757)がベンガル太守となったが、その後継をめぐって、彼には三人の敵対者がいた。

1人目は、アリー・ヴァルディー・ハーンの長女で、シラージュ・ウッダウラの叔母ガシティー・ベーグムであり、そのベンガル太守の後継を不適任だとし、彼女はシラージュ・ウッダウラの敵対者になりそうな者に金をばらまき、ダッカの彼女の邸宅はその陰謀の中心となっていた。

2人目は、同じくアリー・ヴァルディー・ハーンの孫で、シラージュ・ウッダウラの従兄弟ショーカット・ジャングで、彼はシラージュ・ウッダウラがアリー・ヴァルディー・ハーンの三女の子であるのに対し、次女の子である自分のほうがベンガル太守にふさわしいと主張した。

3人目は、ベンガル軍の総司令官で、シラージュ・ウッダウラの叔父ミール・ジャーファルであり、彼はシラージュ・ウッダウラに一応味方していたが、アリー・ヴァルディー・ハーンの従兄弟を妻にしていたことから、内心は自分がベンガル太守になろうと画策していた。

イギリス、フランスがこの後継者争いに目を付けないはずがなく、フランス側はベンガル太守シラージュ・ウッダウラに味方し、イギリス側はシラージュ・ウッダウラにとりあえず味方していた叔父のミール・ジャーファルに、ベンガル太守の位を持ちかけ内通し、太守側の内訌を狙う作戦を計画した。また、イギリスは、シラージュ・ウッダウラに味方していたベンガルの大商人アミー・チャンド、ベンガル一の金融業者ジャガット・セートに内通していた。

しかし、双方とも自分たちが足場を築き、マラーターが略奪をほしいままにして、すっかり国力が弱体化したうえ、後継者争いが起こったベンガルを侵略しようとしていたことは言うまでもない。

ベンガル太守シラージュ・ウッダウラの反英闘争

ウィリアム要塞のブラックホール牢獄
ブラックホール事件の追悼碑
ロバート・クライブ

即位後、シラージュ・ウッダウラは、ガシティー・ベーグムに味方したダッカ市長フセイン・クリー・ハーンを殺害し、彼女は後任の市長にラージャ・ラージ・バラフを任命していた。そのため、シラージュ・ウッダウラは、ラージャ・ラージ・バラフが公金を横領したとして、その邸宅をおさえ彼を逮捕したが、息子のクリシュナ・ダースはウィリアム要塞に逃げ込んだ。

ベンガル太守シラージュ・ウッダウラは、イギリスが行ってきたカルカッタのウィリアム要塞の強化増築は不服であり、イギリス東インド会社及びその職員が行ってきた勝手な密貿易は、ベンガル経済に大きな打撃を与えていると抗議し、イギリスに対してただちにこれらの中止をイギリスに要求した。また、クリシュナ・ダースの引き渡しを要求した

しかし、イギリスは彼の使者を追い返して、その要求を無視してこれらを続行し、クリシュナ・ダースの引き渡しも拒否した。

同年5月、シラージュ・ウッダウラは従兄弟ショーカット・ジャングの討伐のため進軍中だったが、その道中にこのイギリスの返答を聞き激怒し、イギリス人をベンガルから追い出すことを決定した。

まず、シラージュ・ウッダウラは手始めに首都ムルシダーバードのイギリス工場を襲い、工場長などを捕虜にし、同年6月半ば、シラージュ・ウッダウラはフランスの支持を受けてカルカッタを攻撃し占領、イギリス人をカルカッタから追放した。

その後、カルカッタのウィリアム要塞を包囲し軍15000、象軍500、50門の大砲で攻め続け、ベンガル軍の総司令官ドレークは逃げ、副司令官ホルウェルと要塞の兵は降伏したが、その夜、イギリス兵捕虜146名がウィリアム要塞内の「ブラックホール」と名づけられた小さな牢獄に収容され、結果123名が窒息死する事件が起こった。

これは、シラージュ・ウッダウラの部下がウィリアム要塞やこの牢獄を知らなかったから起ったことであり、必ずしも計画して行われたものではないが、イギリス人は「ブラックホール事件」、「ブラックホールの悲劇」として語り継いだ。

さらに、同年10月半ば、シラージュ・ウッダウラは勢いに乗じ,従兄弟ショーカット・ジャングの軍を破り、その首を取った。

ところが、同年12月半ば、イギリスの軍司令官ロバート・クライヴは兵1450を率いカルカッタへと進軍し、1757年1月2日、彼はカルカッタを奪還し、シラージュ・ウッダウラに対して宣戦を布告した。

同年2月、シラージュ・ウッダウラはイギリスと、フーグリーで和平交渉を始めたが決着がつかず、クライヴは和平交渉の印象を残し宿舎に帰ったが、クライヴはベンガル軍に対し夜襲をかけ、不意を突かれたシラージュ・ウッダウラの軍勢は大混乱ののち四散した。

また、同年3月イギリスは、フランスのベンガルにおける拠点シャンデルナゴルに対し猛攻を加え、耐え切れなくなったフランスは降伏し、フランスはベンガルにおける権利は大幅に減った。このとき、その援軍である太守軍の司令官ナンダ・クマールは、すでにイギリスに買収されていた。

だが、フランスの味方であるシラージュ・ウッダウラは、彼のもとに逃亡したフランス人を保護し、イギリスの引き渡し要求に応じなかった。

しかし、イギリスはこの頃、太守の味方である叔父ミール・ジャーファルと密かに内通し味方ににつけ、6月10日には、彼にシラージュ・ウッダウラへのいかなる行為にも非協力を条件に、ベンガル太守の位を約束していた。

プラッシーの戦い

プラッシーの戦いの全体図
プラッシーの戦いののち、クライヴと面会するミール・ジャーファル
ミール・ジャーファルから謝礼を受け取るクライヴ

1757年6月、クライヴは2400の兵を率いて、シラージュ・ウッダウラが陣を張るカルカッタ北方のプラッシー村(現地名はポラシ村)へと向かい、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラも62,000もの大軍を率い、イギリス軍と同地で決着をつけるつもりだった。

6月23日明朝7時頃、先手を打ったクライヴは、プラッシー村に野営していたベンガル軍に攻撃を加え、ベンガル軍もすぐにこれに応戦し戦闘が始まった。

ベンガル軍62,000は、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラの武将モーハン・ラールミール・マダン率いる歩兵5000と騎兵7000、太守の叔父ミール・ジャーファル率いる歩兵35,000と騎兵15,000であり、あとはフランスの援助である大砲53門と操作するフランス兵40であった。

一方、イギリス軍の構成は、ヨーロッパ人兵800名とシパーヒー2300人と、ベンガル軍に対し極めて少数だった。

このように、ベンガル軍のほうがイギリス軍より圧倒的有利であったが、歩兵35,000と騎兵15,000を率いベンガル軍に味方していたミール・ジャーファルは、イギリスとの秘密協定によりを動かさず、ベンガル軍の主力50,000は傍観するだけで戦闘に参加しなかった。

つまり、ベンガル軍の4分の3近くは戦闘に参加していなかったことになるが、シラージュ・ウッダウラは戦いに参加しないのは、ミール・ジャーファルの作戦だと思い込み、全く疑おうとしなかった。

昼からモンスーンの影響で大雨が降りはじめ、戦いは小休止となり、イギリス軍は素早く装備を雨から保護したが、ベンガル軍は訓練不足で雨から装備を保護できず、銃や火薬が水浸しになり火器がまともに使えなかった。

このため、午後2時に雨が止んだ後、イギリス軍の一方的な功撃にあい、ベンガル軍の司令官たちは相矛盾する命令を送り、兵の士気も低下し混乱し始めた。

やがて、武将ミール・マダンが砲撃で戦死すると、シラージュ・ウッダウラは気落ちして、ミール・ジャーファルに助言を求めた。

ミール・ジャーファルはシラージュ・ウッダウラに忠誠を誓い、「明日自分がイギリス軍への総攻撃をかけるので、今日はもう日も暮れているから戦闘をやめましょう。」と言った。

だが、モーハン・ラールは「今の状況で先頭を停止すれば味方の軍は今日の戦闘に敗れたと誤解し、夜半に乗じて四散してしまいます。」と反対したものの、シラージュ・ウッダウラはミール・ジャーファルを完全に信頼しきっており、全軍に戦闘停止を命じた。

しばらくすると、モーハン・ラールの心配した通りベンガル軍に動揺が広がり、逃げ出す兵が続出し壊走に近い状態となり、シラージュ・ウッダウラもあせりはじめ,首都ムルシダーバードへ逃げ出した。

一方、戦闘停止を提案したミール・ジャーファルは公然とイギリス軍に合流し、クライヴに勝利の祝意を伝えた(今でもなお、ミール・ジャーファルの名はインドでは「裏切り者」の代名詞である)。

こうして、ベンガルのおけるプラッシーの戦いは1日で決着がついたが、戦いが1日で終わっただけに両軍の犠牲は少なく、イギリス軍は死者19名、ベンガル軍も500足らずだった。

そして、ベンガル太守シラージュ・ウッダウラは逃げきれずに捕えられ、7月2日に殺害され、その遺体は首都ムルシダーバードへと運ばれた。

こうして、イギリスによるベンガルにおける覇権が決まり、ベンガルは完全にイギリスによって制圧され、フランスは次の第3次カーナティック戦争にも負けて占領されインドから撤退し、南インドにおいてもイギリスの覇権が決定した。

だが、シラージュ・ウッダウラの反英闘争は決して無駄ではなく、1930年代からのベンガル及びインドの反英闘争において、彼はイギリス支配に抵抗した「英雄」として扱われ、現在のバングラデシュでも同様である。

イギリスとベンガル太守ミール・ジャーファル

ミール・ジャーファル(横にいるのは息子ミール・ミーラーン
イギリスがミール・ジャーファルに条約の再確認をしている。

1757年6月末、ミール・ジャーファルは首都ムルシダーバードに入城し、彼はイギリスによってベンガル太守(在位1757 - 1760)に任命された(これ以降、ベンガル太守はイギリス東インド会社の任命となった)。

一方、ベンガル知事に任命されたクライヴは、ミール・ジャーファルから毎年30000ポンドの謝礼を受けたが、これは彼が本国に帰国したとき不正蓄財として裁判で争われることとなり、クライヴの破滅にもつながった。

また、ベンガル太守ミール・ジャーファルとイギリスの間に結ばれた事前の秘密協定では、彼をベンガル太守とする代償として、イギリス東インド会社にチッタゴン、ミドナプルブルドワーンを割譲し、会社に2250万ルピー、会社役員には580万ルピー、あわせて総額2830万ルピーを支払われることとされていた。

しかし、ミール・ジャーファルがあてにしていたムルシダーバードの金庫は、前太守シラージュ・ウッダウラが使い果たしており、その支払いの履行は厳しく、結局、ミール・ジャーファルはイギリスに半分は支払ったものの、残り半分は年3回の分割払いとすることでクライヴも了承した。

この支払はベンガルの財政を破綻させ、ミール・ジャーファルは支払いのためザミーンダールから容赦なく取り立て、彼らからは反抗を受けることとなり、一部はイギリスに保護を求めるありさまだった。

そのため、やりきれなくなったミール・ジャーファルは、ハーレム浸りとなり、遂には麻薬まで手を出すようになった。

このベンガルの状況に対し、1760年にマラーター同盟がベンガル領内に侵攻してきたが、ミール・ジャーファルの要請で出動したイギリス軍によって追い払われ、また、家臣ハーディム・フセインが反乱を起こしたが、これもイギリスによって鎮圧された。もはや、ベンガルはイギリスの援助なしでは1日として存続できないようになっていた。

同年、クライヴは帰国し、新たにベンガル知事となったヘンリー・ヴァンシタートは、ミール・ジャーファルに巨額の支払いを続ける変わりに、チッタゴンをイギリス東インド会社に割譲するよう提案したが、彼は同意しなかった。

そこで、ヴァンシタートは、首都ムルシダーダーバードの宮殿にいたミール・ジャーファルに退位を迫ったが、彼は頑として受け入れようとしなかったが、交渉が行われている間にベンガル軍が反乱を起こしたため、10月ミール・ジャーファルは退位を余儀なくされた。

ベンガル太守ミール・カーシムの反英闘争

ミール・カーシム
ミール・カーシム(象の上にいる人物)

イギリスはミール・ジャーファルの後任として、ミール・ジャーファルの娘婿であるミール・カーシム(在位1760 - 1763)を、新たなベンガル太守に任命した。

このミール・カーシムという人物は以前から、義父ミール・ジャーファルの政治を補佐し、その在任中に頻発した反乱と和解、鎮圧するなど、イギリス側からも注目されていた人物でもあった。

だが、ミール・カーシムも自分をベンガル太守に擁立する代償に、イギリスと秘密協定を交わしており、ヴァンシタートに50万ルピー、イギリス東インド会社の高官に175万ルピー、イギリス東インド会社に150万ルピー、あわせて総額325万ルピーの支払いを約束していた。

そのため、ミール・カーシムは様々な名目でその費用をザミーンダールから徴収し、支払わない者は財産を没収するなど強権的な態度に出たが、長年徴収されてばかりいたザミーンダールらの反感を買い、一部のザミーンダールは反乱まで起こした。

こうなると、ミール・カーシムはだんだんとイギリスの支配から独立したいと思うようになり、ヨーロッパ人の軍事教官を雇い入れ、兵器も最新のものにするなどベンガル軍の改革に乗り出し、首都をムルシダーバードからビハールのムンガーに移転し、イギリスから軍の強化を悟られないようにした。

さらに、ミール・カーシムはベンガル軍の改革の成果をみるため、国境を接する隣国ネパールに密かに侵攻し、一応、ネパール軍を破ったがゲリラの抵抗が強く、領土を保持できず占領地からは撤退した。

無論、これら一連の出来事はミール・カーシムとイギリスとの関係を悪化させ、また問題となっていたのはこれだけではなく、1717年の勅令に基づいて行われた、イギリス東インド会社社員による私貿易の関税も問題であった。

1717年にイギリスが、ムガル帝国の皇帝ファッルフシヤルから与えられたベンガルにおける関税の免除特権は、「船によって国に輸入され、もしくは国から輸出される品物について、会社の封印のある許可状を提示したもののみ関税を免除される。」というものだった。

だが、イギリス東インド会社の職員は、プラッシーの戦い以降、勅許の内容を勝手に広く解釈し、彼らはすべての私貿易と品物の取引が無税であると主張するようにったため、1762年12月、ミール・カーシムはイギリス東インド会社の社員によるすべて私貿易について、その税を支払うようイギリス東インド会社へと通達した。

しかし、イギリス東インド会社の高官も私貿易をおこなっており、ベンガル側の人間も賄賂を受け取り見逃がしたためほとんど効果がなかった。

また、ミール・カーシムはイギリスが様々な方法でベンガルの人々を苦しめていると、これらも併せてイギリスに抗議した。たとえば、地元商人にイギリスの商品を扱わせなかったり、地元農民から農作物を4分の1の値段で強制的に買い上げたリ、イギリスが徴税権を持つカルカッタなどの土地において、税が支払えない農民から強制的に土地を取り上げたりしているというものだった(通常、税が払えなくても財産である土地を取り上げられることはなく、鞭打ちの刑にあうだけだった)。

だが、イギリス側はこれらの要求を無視し続けたため、ミール・カーシムとイギリスの関係はさらに悪化した。

1763年、ミールカーシムは関税問題の解決策として、地元商人だけが不利にならぬよう、すべての商品関税を無税にさせる措置をとったが、イギリス側は「イギリス人の権利は守られねばならず、イギリス人以外のすべての商人は関税を支払わなければならない。」と主張し、関税を廃止するという命令は撤回されるべきであるとし、イギリス側の使者アミャットにこれを伝えさせた。

これに対し、ミール・カーシムは「すべての要求を受け入れる余裕用意はあるが、唯一の条件はベンガルからすべてのイギリス人兵士がいなくなることだ。」と言い、折り合いがつかなかった。

時を同じくして、パトナにあるイギリス工場の工場長エリスは、関税をめぐってベンガルとトラブルを起こし、腹いせにパトナにある太守の要塞を攻撃し、パトナの町を占拠し略奪をほしいままにしたが、ミール・カーシムはすぐさまパトナに軍勢を送り、エリスの工場を焼き払わせ、エリスを降伏させた。

この時、ミール・カーシムは、伝言を伝えたのちにカルカッタへ帰還しつつあったアミャットの船の拿捕を命じたが、アミャットが抵抗しため砲撃戦となり、アミャット以下多数の乗組員が戦死した。

この事件は、悪化の一途をたどっていたミール・カーシムとイギリスの関係に終止符を打ち、同年7月初め、イギリス側は前太守ミール・ジャーファルの再任(位1763 - 1765)を決定した。

この決定に対し、ミール・カーシムはついにイギリスの横暴に対する怒りが爆発し、彼はイギリスとの戦争を決意し、ミール・カーシムの軍とイギリス東インド会社軍がムルシダーバード付近で両軍が激突するに至った。

ミール・カーシムの軍が50,000を超す大軍であるのに対し、イギリス軍はヨーロッパ人1000とインド人傭兵4000からなる兵5000と、ミール・カーシム軍のほうが圧倒的有利だったが、ミール・カーシム軍にはイギリスと内通している者が少なくはなく、プラッシーのときと同様に裏切られ惨敗し、ムルシダーバードはイギリスに占拠されてしまった。

こののち、ミール・カーシムは何度かイギリスと交戦したが、いざという時にいつも味方に裏切られ惨敗し、敗北が続き、ミール・カーシムは首都ムンガーにおいて、内通した者たちに重石をつけ、ムンガー要塞からガンジス川へ放り投げた。

その後、ミール・カーシムは部下のアラブ・アリー・ハーンにムンガー要塞をまかせ、自身はパトナに向かうことにしたが、このアラブ・アリー・ハーンもイギリスと内通しており、すぐにイギリスにムンガー要塞を明け渡したため、ミール・カーシムは激怒し、イギリス人捕虜を女子供に至るまで皆殺しにした。

1763年10月末、イギリス軍はパトナに攻めてきたが、ミール・カーシムは度重なる裏切りに絶望して戦意をなくし、アワド太守シュジャー・ウッダウラの保護を受けるために、隣接するアワドへと逃げた。

ブクサールの戦い

シュジャー・ウッダウラ
シャー・アーラム2世

ミール・カーシムはアワドに落ち延び、アワド太守シュジャー・ウッダウラの保護をうけ、元の状態に戻れるよう援助を約束され、同様にシュジャー・ウッダウラに保護されていたムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世とも合流した。

こうして、ムガル皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成され、三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定し、1764年10月22日三者連合軍40000はビハールとアワドの州境にあるブクサール(バクサルとも)でイギリス軍7000と会戦した(ブクサールの戦い)。

しかし、ミール・カーシム軍は給料未払いで兵士に戦意がなく、皇帝軍は内通者があり兵が動かなかったため、実際はアワド太守の軍とイギリス軍との戦いで、戦いは1日で終結し、結果はイギリスの圧勝であった。

その後、イギリス東インド会社は戦後処理として、アワド太守シュジャー・ウッダウラにミール・カーシムを捕えさせ投獄し、翌1765年8月16日アラーハーバード条約が締結され、イギリスはこのアラーハーバード条約により、ムガル皇帝からベンガル、ビハール、オリッサ3州のディーワーニーを獲得した。

ディーワーニーとは、ムガル皇帝よりディーワーンと呼ばれる各州の徴税長官に与えられる権限を意味し、徴税権、司法権、行政権など内政権を含む権限であったが、イギリスは事実上の領有権を主張し、帝国の与えたディーワーニーよってそれらの土地の支配が正当化されたと判断した。

これにより、イギリスはベンガル、ビハール、オリッサを領有して事実上の太守となり、これ以降インドの植民地化をさらに押し進めるようになった(とはいえ、イギリスは徴税業務は太守の役人に行わせた)。

ここに、ベンガル太守の領有権は事実上失われ、ベンガル太守は単なる有名無実の肩書となり、ベンガルの植民地化は決定した。

一方、前ベンガル太守ミール・カーシムは投獄されたのち釈放され、インド各地を転々と放浪し、1774年頃からデリーに住み、1777年5月8日に帝都デリーで死亡した(その困窮の度合いは凄まじく、彼の葬儀を行うために。

ベンガルの藩王国化とインド併合

ニザーム・ウッダウラ
マンスール・アリー・ハーン

1763年、ベンガル太守に復帰したミール・ジャーファルは、イギリスと新たに協定を締結せざるを得ず、その協定はベンガル太守の安全を守る代償として、イギリスにカルカッタ以外の地の徴税権を新たに与え、イギリス人の貿易は無税で自由にできるものであるというものだった。

さらに、内政権は太守にゆだねたが、過去の太守らのようにイギリスの意に反する行動をとらぬよう、首都ムルシダーバードには太守を監視するため駐在官がおかれることとなった。

この協定は、のちにイギリスがインド各地の王侯と結ぶこととなる一連の協定となり、それらを藩王国とするものさきがけでもあった。

1765年2月5日ミール・ジャーファルは死亡し、息子のニザーム・ウッダウラ(在位1765 - 1766)が後を継いだが、この時からベンガル太守の位は、ムガル帝国からではなくイギリスが任命することが正式に決定された。

イギリスはベンガル地方の徴税業務を太守の役人に行わせていたが、クライブの部下の腐敗や太守の役人への不信感から、1771年からはイギリスが行うようになった(1767年、クライヴは帰国したが、在任中の不正を批判され、莫大な財産を奪われ、1774年自殺した)。

1781年、ベンガル太守はイギリスに徴税権、裁判権など内政権を奪われ、ムガル帝国の名目的主権から事実上外され、ムルシダーバードとその周辺のみを支配するだけとなり、藩王国化した(ベンガル藩王国)。

1880年12月マンスール・アリー・ハーンの退位後、ベンガル藩王国はイギリスによりムルシダーバード藩王国に改称させられ、1947年8月インド・パキスタン分離独立時、ムルシダーバード藩王国はインドに併合された。

参考文献

  • 「新版 世界各国史7 南アジア史」 山川出版社 辛島 昇
  • 「世界歴史の旅 北インド」 山川出版社 辛島昇・坂田貞二
  • 「インド史」 法蔵館 P・N・チョプラ
  • 「近代インドの歴史」 山川出版社 ビパン・チャンドラ
  • 「南アジアの歴史」 有斐閣アニマ 内藤雅雄 中村平治
  • 「ブリタニカ国際百科事典」株式会社ティビーエス・ブリタニカ
  • 「南アジアを知る事典」平凡社
  • 「アジア歴史事典」(全10巻+別巻)平凡社

外部リンク

関連項目