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[[岩手県立黒沢尻工業高等学校]]卒業後、サラリーマンや[[板前]]を経て、[[1972年]]に[[新日本プロレス]]に入門。デビュー戦は同年11月12日、[[和歌山県]][[白浜町]]坂田会館の[[藤波辰爾|藤波辰巳]]戦。新人時代から[[カール・ゴッチ]]に師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学ぶ。テクニックは優れていたが、華がなく、前座試合を続ける。しかし[[アントニオ猪木]]のスパーリング・パートナーに抜擢され、海外遠征にも帯同した。
[[岩手県立黒沢尻工業高等学校]]卒業後、サラリーマンや[[板前]]を経て、[[1972年]]に[[新日本プロレス]]に入門。デビュー戦は同年11月12日、[[和歌山県]][[白浜町]]坂田会館の[[藤波辰爾|藤波辰巳]]戦。新人時代から[[カール・ゴッチ]]に師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学ぶ。テクニックは優れていたが、華がなく、前座試合を続ける。しかし[[アントニオ猪木]]のスパーリング・パートナーに抜擢され、海外遠征にも帯同した。


それまでは猪木の用心棒というだけで単なる前座の一レスラーに過ぎなかったが、[[1984年]]2月3日の札幌大会で、[[長州力]]を試合直前の花道で襲撃し“'''テロリスト'''”として一躍脚光を浴びる。その日以来長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる(実際その頃から[[ワールドプロレスリング]]([[テレビ朝日]])では、関節技を主体とした独特のファイトスタイルや、独特の人相も相俟って毎回中継に登場するレスラーとなり一躍知名度が上がった)。その後は愛弟子の移籍に伴い、同年6月に第1次[[UWF]]に参加。ここで漸く持ち前の関節技のテクニックを披露し、[[プロレス]][[マスメディア|マスコミ]]のバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。新日本復帰、第2次UWF参加を経て、[[1991年]]3月に[[藤原組]]を旗揚げしたが、2度に及ぶレスラーの大量離脱([[1993年]]に[[パンクラス]]、[[1995年]]に[[格闘探偵団バトラーツ]]が分裂)を経て、団体としての機能を失った。以後はフリーランスとして選手活動を続けている。その技術を見込まれ、男女問わず(特に[[神取忍]]は弟子といっても良い関係で各種の関節技および一本足頭突きを伝授されている)指導を請う後輩レスラーも多い。[[プロレスリングZERO-ONE|ZERO-ONE]](現[[ZERO1]])時代はフリーとしての参戦ながら[[橋本真也]]のタッグパートナーや若手選手の指導員としても貢献する(ただし、指導はしても弟子は取らないと発言していて、弟子入り志願者にはバトラーツに行くように勧めている)。
それまでは猪木の用心棒というだけで単なる前座の一レスラーに過ぎなかったが、[[1984年]]2月3日の札幌大会で、[[長州力]]を試合直前の花道で襲撃し“'''テロリスト'''”として一躍脚光を浴びる。その日以来長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる(実際その頃から[[ワールドプロレスリング]]([[テレビ朝日]])では、関節技を主体とした独特のファイトスタイルや、独特の人相も相俟って毎回中継に登場するレスラーとなり一躍知名度が上がった)。その後は愛弟子の移籍に伴い、同年6月に第1次[[UWF]]に参加。ここで漸く持ち前の関節技のテクニックを披露し、[[プロレス]][[マスメディア|マスコミ]]のバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。新日本復帰、第2次UWF参加を経て、[[1991年]]3月に[[藤原組]]を旗揚げしたが、2度に及ぶレスラーの大量離脱([[1993年]]に[[パンクラス]]、[[1995年]]に[[格闘探偵団バトラーツ]]が分裂)を経て、団体としての機能を失った。以後はフリーランスとして選手活動を続けている。
その技術を見込まれ、男女問わず(特に[[神取忍]]は弟子といっても良い関係で各種の関節技および一本足頭突きを伝授されている)指導を請う後輩レスラーも多い。[[プロレスリングZERO-ONE|ZERO-ONE]](現[[ZERO1]])時代はフリーとしての参戦ながら[[橋本真也]]のタッグパートナーや若手選手の指導員としても貢献する(ただし、指導はしても弟子は取らないと発言していて、弟子入り志願者にはバトラーツに行くように勧めている)。

2007年胃がんで手術し引退も覚悟したが翌年12月に復帰<ref>[http://sankei.jp.msn.com/life/news/110121/bdy11012114510024-n1.htm 藤原喜明さん、がん宣告も現役続ける] MSN産経ニュース 2011年1月21日閲覧</ref>。現在も不定期ながら全日本プロレスなどのリングに上がっている。[[イノキ・ゲノム・フェデレーション|IGF]]にも参加し猪木に協力している。

== リング外での活動 ==
出演したテレビ番組、[[映画]]、[[Vシネマ]]は多数あり、その風貌から[[暴力団]]関連の役が多い。また、[[イラストレーション|イラスト]]執筆、[[盆栽]]、[[浪曲]]鑑賞、[[陶芸]]などの多趣味でも知られる。Vシネマにおいては「SAEKO」という作品で、当時まだデビュー間もない無名時代の[[常盤貴子]]主演の作品で共演しており、常盤演じるSAEKOの[[用心棒]]役で、その役名も藤原で常盤に「ふじわらーっ」と呼ばれていた。

「[[オールスター感謝祭]]」([[TBSテレビ|TBS]]で毎年春・秋の特番)に於いてはよくスポーツ物の[[アトラクション]]があり、[[相撲]]もよく催されるが、藤原と[[チャック・ウィルソン]]の一騎打ちというのが恒例となっていた。[[テリー伊藤]]企画のテレビ番組で、[[クマ|熊]]と戦ったことある(爪をカットした熊である)。熊は力が強すぎて、観あうだけで何も出来ず終わってしまった。ただ、後にこの対戦に関して格闘技に関する本に「何もしないのが最大の防御(下手に踏ん張るとダメージが大きくなる)だった」と記述されている。

== エピソード ==
* 前座時代は「イラストが得意」「無口」で有名だった。なお、イラストについては、“'''テロリスト'''”として脚光を浴びる前から、[[東京スポーツ]]刊行の隔週タブロイド誌「ザ・プロレス」で読者投稿の批評コーナーを持っていた。
* 前座時代は「イラストが得意」「無口」で有名だった。なお、イラストについては、“'''テロリスト'''”として脚光を浴びる前から、[[東京スポーツ]]刊行の隔週タブロイド誌「ザ・プロレス」で読者投稿の批評コーナーを持っていた。
* 「長州襲撃」以前に1回だけTVでその試合が放送された(木村健悟&藤原喜明vsディック・マードック&バッドニュース・アレン)。
* 「長州襲撃」以前に1回だけTVでその試合が放送された(木村健悟&藤原喜明vsディック・マードック&バッドニュース・アレン)。さらにそれ以前、1982年1月1日に[[後楽園ホール]]での「元旦決戦」にて行われた、カール・ゴッチとのエキシビションマッチが、TVの生中継(「新春プロレススペシャル」)で流れたこともある
* さらにそれ以前、1982年1月1日に[[後楽園ホール]]での「元旦決戦」にて行われた、カール・ゴッチとのエキシビションマッチが、TVの生中継(「新春プロレススペシャル」)で流れたこともある。
* 新日本に出戻っていた時期(1986年)に、[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]より「湯の町ひとり」というシングルを出している(ただし、UWF事務所での通信販売のみ)。
* 新日本に出戻っていた時期(1986年)に、[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]より「湯の町ひとり」というシングルを出している(ただし、UWF事務所での通信販売のみ)。
* いわゆる“ナウリーダーズ(旧世代軍…猪木、坂口、マサ斎藤ら…)VSニューリーダーズ(新世代軍…長州、藤波、前田ら…)”の世代抗争では、その風貌から旧世代軍に入れられたが、年齢的には長州より2歳上なだけであった。
* いわゆる“ナウリーダーズ(旧世代軍…猪木、坂口、マサ斎藤ら…)VSニューリーダーズ(新世代軍…長州、藤波、前田ら…)”の世代抗争では、その風貌から旧世代軍に入れられたが、年齢的には長州より2歳上なだけであった。
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* 「スポーツドリンク」と称して酒を飲むパフォーマンスがある。酒が入っている状態では饒舌なためトークイベントなどでは酒を用意していることも多い。ただし酒はかなり強く大量に飲んでも泥酔はおろか意識がはっきりしていて会話も普段通り行える。
* 「スポーツドリンク」と称して酒を飲むパフォーマンスがある。酒が入っている状態では饒舌なためトークイベントなどでは酒を用意していることも多い。ただし酒はかなり強く大量に飲んでも泥酔はおろか意識がはっきりしていて会話も普段通り行える。
* プロレスマスコミのインタビューに対し、おふざけが多いことでも知られる。毎年作成された雑誌企画のレスラー名鑑の「抱負」の欄にダジャレをコメントする。またUWF所属の頃に抱負を聞かれて、「[[PWF]]のチャンピオンになる」と答えた。当時、[[全日本プロレス]]とUWFの間に接点がなかったことや藤原自身が説明をしなかったことから、謎として残ったが、後に自ら興した団体を「新生UWF・藤原組」から「プロフェッショナルレスリング藤原組」に改称した際に、その略称がPWFとなると気付いたプロレスマスコミが納得して、改めて当時の抱負を紹介した、というエピソードがある。
* プロレスマスコミのインタビューに対し、おふざけが多いことでも知られる。毎年作成された雑誌企画のレスラー名鑑の「抱負」の欄にダジャレをコメントする。またUWF所属の頃に抱負を聞かれて、「[[PWF]]のチャンピオンになる」と答えた。当時、[[全日本プロレス]]とUWFの間に接点がなかったことや藤原自身が説明をしなかったことから、謎として残ったが、後に自ら興した団体を「新生UWF・藤原組」から「プロフェッショナルレスリング藤原組」に改称した際に、その略称がPWFとなると気付いたプロレスマスコミが納得して、改めて当時の抱負を紹介した、というエピソードがある。
* [[漫画家]]・[[大橋ツヨシ]]の作品に、彼を主人公とした[[4コマ漫画]]『藤原でございます』がある。
* [[イノキ・ゲノム・フェデレーション|IGF]]にも参加し猪木に協力している。

芸能活動も行っており、出演したテレビ番組、[[映画]]、[[Vシネマ]]は多数あり、その風貌から[[暴力団]]関連の役が多い。また、[[イラストレーション|イラスト]]執筆、[[盆栽]]、[[浪曲]]鑑賞、[[陶芸]]などの多趣味でも知られる。Vシネマにおいては「SAEKO」という作品で、当時まだデビュー間もない無名時代の[[常盤貴子]]主演の作品で共演しており、常盤演じるSAEKOの[[用心棒]]役で、その役名も藤原で常盤に「ふじわらーっ」と呼ばれていた。

「[[オールスター感謝祭]]」([[TBSテレビ|TBS]]で毎年春・秋の特番)に於いてはよくスポーツ物の[[アトラクション]]があり、[[相撲]]もよく催されるが、藤原と[[チャック・ウィルソン]]の一騎打ちというのが恒例となっていた。

[[テリー伊藤]]企画のテレビ番組で、[[クマ|熊]]と戦ったことある(爪をカットした熊である)。熊は力が強すぎて、観あうだけで何も出来ず終わってしまった。ただ、後にこの対戦に関して格闘技に関する本に「何もしないのが最大の防御(下手に踏ん張るとダメージが大きくなる)だった」と記述されている。

[[漫画家]]・[[大橋ツヨシ]]の作品に、彼を主人公とした[[4コマ漫画]]『藤原でございます』がある。

入場テーマ曲は「[[ワルキューレの騎行]]」([[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]作曲)で、新日本プロレスの前座時代は別の曲の時代もあった。当初は[[クラシック音楽|クラシック]]([[オペラ]])の曲は藤原の柄にも合わないと批判の声すら上がったが、藤原の注目度と共に妙にマッチするようになり、現在ではイントロだけで拍手喝采である。

2007年胃がんで手術し引退も覚悟したが翌年12月に復帰<ref>[http://sankei.jp.msn.com/life/news/110121/bdy11012114510024-n1.htm 藤原喜明さん、がん宣告も現役続ける] MSN産経ニュース 2011年1月21日閲覧</ref>。現在も不定期ながら全日本プロレスなどのリングに上がっている。


== 得意技 ==
== 得意技 ==
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海外で人気の出た[[キラー・カーン]]が帰国後に突如、藤原との対戦が組まれ、彼が持つ本来の実力を知るカーンがリングから逃亡したことがあった(記録はリングアウト)。
海外で人気の出た[[キラー・カーン]]が帰国後に突如、藤原との対戦が組まれ、彼が持つ本来の実力を知るカーンがリングから逃亡したことがあった(記録はリングアウト)。

== 入場テーマ曲 ==
* [[ワルキューレの騎行]]([[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]作曲)
: 新日本プロレスの前座時代は別の曲の時代もあった。当初は[[クラシック音楽|クラシック]]([[オペラ]])の曲は藤原の柄にも合わないと批判の声すら上がったが、藤原の注目度と共に妙にマッチするようになり、現在ではイントロだけで拍手喝采である。


== ゲーム ==
== ゲーム ==

2012年10月2日 (火) 09:29時点における版

藤原喜明
藤原喜明の画像
プロフィール
リングネーム 藤原喜明
本名 藤原喜明
ニックネーム 関節技の鬼
藤原組長
昭和のテロリスト
問答無用の仕事師
身長 182.5cm
体重 102kg
誕生日 (1949-04-27) 1949年4月27日(74歳)
出身地 岩手県和賀郡江釣子村(現:北上市
所属 藤原組
ウォーターオリオン(芸能)
スポーツ歴 柔道
剣道
トレーナー アントニオ猪木
カール・ゴッチ
デビュー 1972年11月12日
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藤原 喜明(ふじわら よしあき、男性、1949年4月27日 - )は、日本プロレスラーフリーランス、個人事務所:藤原組)。学校法人日本医科学総合学院理事長。同学校法人は文部科学省認可の専修学校朋友柔道整復専門学校を運営している。

プロレスラー以外に俳優声優タレントとしても活躍している。関節技の鬼という異名をとり「藤原組長」の愛称で親しまれている。

来歴

岩手県立黒沢尻工業高等学校卒業後、サラリーマンや板前を経て、1972年新日本プロレスに入門。デビュー戦は同年11月12日、和歌山県白浜町坂田会館の藤波辰巳戦。新人時代からカール・ゴッチに師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学ぶ。テクニックは優れていたが、華がなく、前座試合を続ける。しかしアントニオ猪木のスパーリング・パートナーに抜擢され、海外遠征にも帯同した。

それまでは猪木の用心棒というだけで単なる前座の一レスラーに過ぎなかったが、1984年2月3日の札幌大会で、長州力を試合直前の花道で襲撃し“テロリスト”として一躍脚光を浴びる。その日以来長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる(実際その頃からワールドプロレスリングテレビ朝日)では、関節技を主体とした独特のファイトスタイルや、独特の人相も相俟って毎回中継に登場するレスラーとなり一躍知名度が上がった)。その後は愛弟子の移籍に伴い、同年6月に第1次UWFに参加。ここで漸く持ち前の関節技のテクニックを披露し、プロレスマスコミのバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。新日本復帰、第2次UWF参加を経て、1991年3月に藤原組を旗揚げしたが、2度に及ぶレスラーの大量離脱(1993年パンクラス1995年格闘探偵団バトラーツが分裂)を経て、団体としての機能を失った。以後はフリーランスとして選手活動を続けている。

その技術を見込まれ、男女問わず(特に神取忍は弟子といっても良い関係で各種の関節技および一本足頭突きを伝授されている)指導を請う後輩レスラーも多い。ZERO-ONE(現ZERO1)時代はフリーとしての参戦ながら橋本真也のタッグパートナーや若手選手の指導員としても貢献する(ただし、指導はしても弟子は取らないと発言していて、弟子入り志願者にはバトラーツに行くように勧めている)。

2007年胃がんで手術し引退も覚悟したが翌年12月に復帰[1]。現在も不定期ながら全日本プロレスなどのリングに上がっている。IGFにも参加し猪木に協力している。

リング外での活動

出演したテレビ番組、映画Vシネマは多数あり、その風貌から暴力団関連の役が多い。また、イラスト執筆、盆栽浪曲鑑賞、陶芸などの多趣味でも知られる。Vシネマにおいては「SAEKO」という作品で、当時まだデビュー間もない無名時代の常盤貴子主演の作品で共演しており、常盤演じるSAEKOの用心棒役で、その役名も藤原で常盤に「ふじわらーっ」と呼ばれていた。

オールスター感謝祭」(TBSで毎年春・秋の特番)に於いてはよくスポーツ物のアトラクションがあり、相撲もよく催されるが、藤原とチャック・ウィルソンの一騎打ちというのが恒例となっていた。テリー伊藤企画のテレビ番組で、と戦ったこともある(爪をカットした熊である)。熊は力が強すぎて、観あうだけで何も出来ず終わってしまった。ただ、後にこの対戦に関して格闘技に関する本に「何もしないのが最大の防御(下手に踏ん張るとダメージが大きくなる)だった」と記述されている。

エピソード

  • 前座時代は「イラストが得意」「無口」で有名だった。なお、イラストについては、“テロリスト”として脚光を浴びる前から、東京スポーツ刊行の隔週タブロイド誌「ザ・プロレス」で読者投稿の批評コーナーを持っていた。
  • 「長州襲撃」以前に1回だけTVでその試合が放送された(木村健悟&藤原喜明vsディック・マードック&バッドニュース・アレン)。さらにそれ以前、1982年1月1日に後楽園ホールでの「元旦決戦」にて行われた、カール・ゴッチとのエキシビションマッチが、TVの生中継(「新春プロレススペシャル」)で流れたこともある。
  • 新日本に出戻っていた時期(1986年)に、東芝EMIより「湯の町ひとり」というシングルを出している(ただし、UWF事務所での通信販売のみ)。
  • いわゆる“ナウリーダーズ(旧世代軍…猪木、坂口、マサ斎藤ら…)VSニューリーダーズ(新世代軍…長州、藤波、前田ら…)”の世代抗争では、その風貌から旧世代軍に入れられたが、年齢的には長州より2歳上なだけであった。
  • 入場時に花束贈呈が行われていた時代、藤原は花束を受け取るとすぐさま観客席に放り投げていた。
  • 「スポーツドリンク」と称して酒を飲むパフォーマンスがある。酒が入っている状態では饒舌なためトークイベントなどでは酒を用意していることも多い。ただし酒はかなり強く大量に飲んでも泥酔はおろか意識がはっきりしていて会話も普段通り行える。
  • プロレスマスコミのインタビューに対し、おふざけが多いことでも知られる。毎年作成された雑誌企画のレスラー名鑑の「抱負」の欄にダジャレをコメントする。またUWF所属の頃に抱負を聞かれて、「PWFのチャンピオンになる」と答えた。当時、全日本プロレスとUWFの間に接点がなかったことや藤原自身が説明をしなかったことから、謎として残ったが、後に自ら興した団体を「新生UWF・藤原組」から「プロフェッショナルレスリング藤原組」に改称した際に、その略称がPWFとなると気付いたプロレスマスコミが納得して、改めて当時の抱負を紹介した、というエピソードがある。
  • 漫画家大橋ツヨシの作品に、彼を主人公とした4コマ漫画『藤原でございます』がある。

得意技

「使う技すべてが得意技」という藤原だが、代表的な技をあげると以下のようになる。

脇固め
藤原喜明に由来した技名フジワラ・アームバーの名前で、世界中のレスラーに用いられている技。
第1次UWF最後の試合でジャーマン・スープレックスを狙った佐山聡の顔面をバックエルボーで打ち、ひるんだところをエルボーを入れた逆側の腕を取り瞬時に極めてギブアップを奪ったこともある。
ヘッドバット
藤原の場合は大木金太郎のように一本足スタイルで放つ。とにかく頭が固く、コーナーポストのカバーを外された金具が剥き出しになっている状態で相手に頭を打ち付けられても平然とした表情ですまし、相手が辟易とするシーンはよく見られる。また、相手が対抗してヘッドバットをしかけても全く効かず、相手の方が逆にダメージを受ける場合もある。また、あるバラエティ番組の企画で100人連続ヘッドバットをおこなったことがある。
アキレス腱固め
元は道場でのスパーリングなどで使われていた裏の技なのだが、第1次UWF時代に頻繁に披露されたことで脚光を浴びるようになった。第2次UWF時にはスタンディング式で極めてみせたこともある。
1986年2月の猪木対藤原戦において、藤原のアキレス腱固めをかけられた猪木が上半身を起こしながら「そっちじゃねえ、コッチだ」と極める方向を指差しながら挑発した。
腹固め
自分の両腕で相手の片腕を極め、さらに両足でもう片方の腕を極める技。
クルック・ヘッドシザース
相手の頭を両足で挟み、首をねじ切る。主にUWFで使用。
ドリル・ア・ホールパイルドライバー
現在はあまり使わないが、新日の前座時代の得意技である。

最近では海外からの関節技講師の依頼も多く、2006年には米国に2回、2008には米国・サンフランシスコで関節技を主とするレスリングセミナーを行った。

海外で人気の出たキラー・カーンが帰国後に突如、藤原との対戦が組まれ、彼が持つ本来の実力を知るカーンがリングから逃亡したことがあった(記録はリングアウト)。

入場テーマ曲

新日本プロレスの前座時代は別の曲の時代もあった。当初はクラシックオペラ)の曲は藤原の柄にも合わないと批判の声すら上がったが、藤原の注目度と共に妙にマッチするようになり、現在ではイントロだけで拍手喝采である。

ゲーム

映画

テレビドラマ

CM

著書

  • 復刻 幻の藤原ノート――「ゴッチ教室」の神髄
  • 覚悟ー人生60年、覚悟が生死をわけた!ー
  • 藤原喜明のスーパー・テクニック―最強の関節技全公開

ほか

脚注

  1. ^ 藤原喜明さん、がん宣告も現役続ける MSN産経ニュース 2011年1月21日閲覧

関連項目

外部リンク