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同年、[[徳川氏]]に召し抱えられ江戸三番町角屋敷を与えられた。 |
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2012年4月15日 (日) 10:20時点における版
伊達 房実(だて ふさざね)、生年不詳 - 寛永3年(1626年)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。後、江戸幕府旗本。与兵衛、伊達房成。妻は足利義氏の家臣相馬藤右衛門の娘。太田氏、後北条氏の家臣で伊達城主、岩槻城主太田氏房の付家老。後に旗本。
略歴
永禄3年(1560年)、伊達城が築かれる。[1]太田氏房が岩槻城主となるのに伴い岩槻城付家老となる。[2]
天正17年(1589年)、華林山慈恩寺に「南蛮鉄灯篭」(埼玉県さいたま市 市指定文化財)を寄進。翌天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に際して、岩槻城主太田氏房が小田原城に篭った為、房実は2,000人の兵と共に岩槻城に篭城した。1,000人余の死傷者を出しながら奮闘したが、2万人の豊臣軍に攻められ落城降伏した。
同年、徳川氏に召し抱えられ江戸三番町角屋敷を与えられた。
天正19年(1591年)、武蔵国足立郡(埼玉県さいたま市見沼区)250石を与えられ旧領である大和田村を知行した。その頃に伊達城は破却され大和田陣屋を構えた。
後に常陸国鹿島郡(茨城県鉾田市)200石を加増され450石となった。
寛永3年(1626年)5月19日死去し、江戸谷中瑞輪寺に葬られた。法名日受。
大和田伊達氏系譜
- 『寛政重修諸家譜』
政充━宗春━房実(房成)━房次┳勝治 ┣勝尚━女 ┗勝信 ∥ 清房=房征=政春=政誉━政典━政和━与兵衛━政辰
- 『浅子家文書目録 資料抄録 伊達氏先祖書』
輝宗━重実━政統━房実━政勝(房勝)━房次
参考資料
- 『北条五代記』
- 『小田原編年録』
- 『関東古戦録』