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大学卒業後は日本競輪学校へ入学。デビュー後暫くは、当時の制度による卒業同期選手のみで行われた新人リーグ競走で圧倒的な力を示し、リーグ終了後も含めて35連勝を記録を樹立した<ref>特別進級(特進)制度が設けられるようになってからの最多連勝記録保持者。特進制度がなかった時代を含めると、1962年に[[須田一二三]]がデビュー戦以降、37連勝を記録している。</ref>。
大学卒業後は日本競輪学校へ入学。デビュー後暫くは、当時の制度による卒業同期選手のみで行われた新人リーグ競走で圧倒的な力を示し、リーグ終了後も含めて35連勝を記録を樹立した<ref>特別進級(特進)制度が設けられるようになってからの最多連勝記録保持者。特進制度がなかった時代を含めると、1962年に[[須田一二三]]がデビュー戦以降、37連勝を記録している。</ref>。


そしてトップクラスのS級でも実力を遺憾なく発揮し、[[1989年]]には[[オールスター競輪]]で特別競輪(現在の[[競輪の競走格付け#GI (G1)|GI]])初優勝を果たす。そして[[1990年]]には[[KEIRINグランプリ]]を制し2年連続の賞金王となり競輪の頂点に上り詰めたが、この暫く後から持病の[[腰痛]]に悩まされるようになり、自らの時代を築き上げる所までには至らなかった。
そしてトップクラスのS級でも実力を遺憾なく発揮し、[[1989年]]には[[オールスター競輪]]で特別競輪(現在の[[競輪の競走格付け#GI (G1)|GI]])初優勝を果たして獲得賞金1億円突破も確定的になっていたが、[[KEIRINグランプリ]]中止のため、あと70万ほど届かず幻となった<ref>中止よる補償金支給されたが賞金としては算出されなかった。</ref>。しかし[[1990年]]のKEIRINグランプリを制したことで賞金1億円突破と2年連続の賞金王を達成し、競輪の頂点に上り詰めた。


だが40歳を越してからもGIに出場するなど息の長い活躍を続け、[[2010年]]には長男・貴史がS級に昇格したことから史上2組目<ref>史上初は[[2006年]]の竹内久人(37期)・公亮(86期)親子。</ref>となる親子同時S級在籍を達成し、同年9月のオールスター競輪においては史上初となる親子同時GI出場も達成した。
この暫く後から持病の[[腰痛]]に悩まされるようになり、自らの時代を築き上げる所までには至らなかった。だが40歳を越してからもGIに出場するなど息の長い活躍を続け、[[2010年]]には長男・貴史がS級に昇格したことから史上2組目<ref>史上初は[[2006年]]の竹内久人(37期)・公亮(86期)親子。</ref>となる親子同時S級在籍を達成し、同年9月のオールスター競輪においては史上初となる親子同時GI出場も達成した。


しかし脚力の衰えから2011年下半期よりA級へ降格することが決定し、今後の動向が注目されていた中で、[[2011年]][[6月14日]]にスポーツ紙の報道で現役引退を決意したと報じられる<ref>[http://www.nikkansports.com/race/public_race/news/p-rc-tp1-20110614-790139.html 坂本勉引退「ロスの超特急」いわき平で花道] - [[日刊スポーツ]] 2011年6月14日</ref>。[[6月22日]]に[[いわき平競輪場]]でのF1開催最終日第7R・S級一般戦で1着を取った直後、場内のイベントで正式に引退を表明し、翌日改めて行なわれた記者会見では、腰痛が酷くなったことや、7月からのA級陥落が決まったこと、また次男・周輝がデビューすることなどもあり、「潮時だと思った」ことで引退を決意したことを明かした。[[6月28日]]に選手登録削除。
しかし脚力の衰えから2011年下半期よりA級へ降格することが決定し、今後の動向が注目されていた中で、[[2011年]][[6月14日]]にスポーツ紙の報道で現役引退を決意したと報じられる<ref>[http://www.nikkansports.com/race/public_race/news/p-rc-tp1-20110614-790139.html 坂本勉引退「ロスの超特急」いわき平で花道] - [[日刊スポーツ]] 2011年6月14日</ref>。[[6月22日]]に[[いわき平競輪場]]でのF1開催最終日第7R・S級一般戦で1着を取った直後、場内のイベントで正式に引退を表明し、翌日改めて行なわれた記者会見では、腰痛が酷くなったことや、7月からのA級陥落が決まったこと、また次男・周輝がデビューすることなどもあり、「潮時だと思った」ことで引退を決意したことを明かした。[[6月28日]]に選手登録削除。


== 現役引退後 ==
== 現役引退後 ==
引退後の2011年7月から、[[日本自転車競技連盟]]の日本代表コーチに就任る<ref>[http://www.sanspo.com/keiba/news/110623/kbd1106232013001-n1.htm 坂本勉が会見「金メダリスト育てたい」] - [[サンケイスポーツ]] 2011年6月23日</ref>。
引退後の2011年7月から、[[日本自転車競技連盟]]の日本代表コーチに就任している<ref>[http://www.sanspo.com/keiba/news/110623/kbd1106232013001-n1.htm 坂本勉が会見「金メダリスト育てたい」] - [[サンケイスポーツ]] 2011年6月23日</ref>。


==主な獲得タイトルと記録==
==主な獲得タイトルと記録==

2012年3月18日 (日) 02:28時点における版

オリンピック
男子 自転車競技トラック
1984 スプリント

坂本勉さかもと つとむ 1962年8月3日- )は、日本の元競輪選手自転車競技選手。現在の青森県三戸郡南部町出身。日本競輪学校第57期卒業。日本競輪選手会青森支部所属。師匠は実兄の坂本典男。初出走は1986年5月10日青森競輪場で初勝利も同日。血液型はO型。

同県所属94期生坂本貴史・100期生坂本周輝の実父であり師匠。同県所属91期生坂本昌宏は甥(典男の子息)。

自転車競技での戦績

学生時代から自転車競技を始め、青森県立三戸高等学校を経て日本大学に進学し、在学中に出場した1984年ロサンゼルスオリンピックでは、自転車競技の1000mタイムトライアルで出場権を掴んだが、共産圏諸国のボイコットのため追加で出場権を得たスプリント種目において、敗者復活戦から勝ち上がり、3位決定戦でフィリップ・ヴェルネを下して銅メダルを獲得。ヨーロッパでは「スポーツの王様」といわれる自転車競技で日本人が初めてメダルを獲得するという快挙を成し遂げた。前回モスクワオリンピックは兄・典男がボイコットにより出場を阻まれており、その無念を晴らす以上の活躍であった。

当時学生(アマチュア)だった坂本がメダルを取った後は、プロ選手の参加が解禁されたアトランタオリンピック十文字貴信が銅メダルを獲得するまで、日本人はメダルには届かなかった。

競輪選手としての戦績

大学卒業後は日本競輪学校へ入学。デビュー後暫くは、当時の制度による卒業同期選手のみで行われた新人リーグ競走で圧倒的な力を示し、リーグ終了後も含めて35連勝を記録を樹立した[1]

そしてトップクラスのS級でも実力を遺憾なく発揮し、1989年にはオールスター競輪で特別競輪(現在のGI)初優勝を果たして獲得賞金1億円突破も確定的になっていたが、KEIRINグランプリ中止のため、あと70万ほど届かず幻となった[2]。しかし1990年のKEIRINグランプリを制したことで賞金1億円突破と2年連続の賞金王を達成し、競輪の頂点に上り詰めた。

この暫く後から持病の腰痛に悩まされるようになり、自らの時代を築き上げる所までには至らなかった。だが40歳を越してからもGIに出場するなど息の長い活躍を続け、2010年には長男・貴史がS級に昇格したことから史上2組目[3]となる親子同時S級在籍を達成し、同年9月のオールスター競輪においては史上初となる親子同時GI出場も達成した。

しかし脚力の衰えから2011年下半期よりA級へ降格することが決定し、今後の動向が注目されていた中で、2011年6月14日にスポーツ紙の報道で現役引退を決意したと報じられる[4]6月22日いわき平競輪場でのF1開催最終日第7R・S級一般戦で1着を取った直後、場内のイベントで正式に引退を表明し、翌日改めて行なわれた記者会見では、腰痛が酷くなったことや、7月からのA級陥落が決まったこと、また次男・周輝がデビューすることなどもあり、「潮時だと思った」ことで引退を決意したことを明かした。6月28日に選手登録削除。

現役引退後

引退後の2011年7月から、日本自転車競技連盟の日本代表コーチに就任している[5]

主な獲得タイトルと記録

  • 現役通算記録
    • 2084戦523勝
    • 獲得賞金9億7977万3633円
  • 坂本貴史との親子同時記録
    • S級在籍 - 2010年・2011年上半期
    • 特別競輪出場 - 2010年オールスター競輪

競走スタイル

圧倒的な先行力は『ロスの超特急』とあだ名されたほどで、全盛期の中野浩一が番手で追走して追い込んでも届かなかったことがある程の実力を誇っていた。

しかし後に腰痛により成績が低迷。そのため一時期自在や追込への戦法転換を図ったこともあったが、元通りの先行に戻してからは復調したため、同じ地区に大勢の若手先行選手がいる中で、自らも先行主体で戦い続けた。晩年は年齢的な面から追い込み主体となったが、重鎮的存在であっても年齢を感じさせないことから、選手仲間からも尊敬を受けていた。

脚注

  1. ^ 特別進級(特進)制度が設けられるようになってからの最多連勝記録保持者。特進制度がなかった時代を含めると、1962年に須田一二三がデビュー戦以降、37連勝を記録している。
  2. ^ 中止による補償金は支給されたが賞金としては算出されなかった。
  3. ^ 史上初は2006年の竹内久人(37期)・公亮(86期)親子。
  4. ^ 坂本勉引退「ロスの超特急」いわき平で花道 - 日刊スポーツ 2011年6月14日
  5. ^ 坂本勉が会見「金メダリスト育てたい」 - サンケイスポーツ 2011年6月23日

関連項目