「片岡仁左衛門 (11代目)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
50行目: 50行目:


==人物==
==人物==
いわゆる天才肌の名人だったが、個性が強い上に気性が激しく、[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]や鴈治郎と衝突を度々くり返した当時の歌舞伎界でも指折りの要注意人物でもあった。たとえば、團十郎の態度が癪にさわると、團十郎の前で傘を開いて[[助六]]の見得を切る(『助六』は市川宗家の[[お家芸]])。相方の口跡が気に入らないと、嫌みに台本を手に舞台に上がる。舞台に不要な物でも落ちていようものなら、これ見よがしにゴミ拾いをしながら舞台をつとめた。『熊谷陣屋』の弥陀六では、上手から刀を投げて舞台に出なければいけないのに、邪魔な奴が立っていると言ってはわざわざ下手から出て芝居をぶちこわす。『[[国性爺合戦]]・紅流し』の和藤内では、片足をかける橋の欄干の高さが気に入らないと言っては化粧を落として帰宅する。こうした逸話には枚挙に暇がない。その気性の激しさは晩年になっても相変わらずで、昭和2年(1927年)には、若手俳優たちの稽古中に「踊りが下手だ」とある有望株の若手俳優の顔面を真剣で殴打するという一件を起こし、その若手俳優はこれも一因となって程なく歌舞伎界と縁を切り映画界に転じてしまう結果になった。また、一緒に稽古をしていてこの一件を目撃した若手俳優の中でも嵐徳太郎は、「いくら才能があっても門閥如何では出世できないのか」とショックを受け、これまた歌舞伎役者を続ける意欲を無くして程なく映画界に転じてしまった。この真剣で殴打されたある若手俳優とは後の[[片岡千恵蔵]]であり、嵐徳太郎は後の[[嵐寛寿郎]]である。すなわち、良くも悪くも後の2名の昭和の[[剣戟映画]]の大スターに、歌舞伎の世界を捨てさせるきっかけを作った人物でもある。
いわゆる天才肌の名人だったが、個性が強い上に気性が激しく、[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]や鴈治郎と衝突を度々くり返した当時の歌舞伎界でも指折りの要注意人物でもあった。たとえば、團十郎の態度が癪にさわると、團十郎の前で傘を開いて[[助六]]の見得を切る(『助六』は市川宗家の[[お家芸]])。相方の口跡が気に入らないと、嫌みに台本を手に舞台に上がる。舞台に不要な物でも落ちていようものなら、これ見よがしにゴミ拾いをしながら舞台をつとめた。『[[一谷嫩軍記|熊谷陣屋]]』の弥陀六では、石鑿を投げたつもりで上手から舞台に出なければいけないのに、邪魔な奴が立っていると言ってはわざわざ下手から出て芝居をぶちこわす。『[[国性爺合戦]]・紅流し』の和藤内では、片足をかける橋の欄干の高さが気に入らないと言っては化粧を落として帰宅する。こうした逸話には枚挙に暇がない。その気性の激しさは晩年になっても相変わらずで、昭和2年(1927年)には、若手俳優たちの稽古中に「踊りが下手だ」とある有望株の若手俳優の顔面を真剣で殴打するという一件を起こし、その若手俳優はこれも一因となって程なく歌舞伎界と縁を切り映画界に転じてしまう結果になった。また、一緒に稽古をしていてこの一件を目撃した若手俳優の中でも嵐徳太郎は、「いくら才能があっても門閥如何では出世できないのか」とショックを受け、これまた歌舞伎役者を続ける意欲を無くして程なく映画界に転じてしまった。この真剣で殴打されたある若手俳優とは後の[[片岡千恵蔵]]であり、嵐徳太郎は後の[[嵐寛寿郎]]である。すなわち、良くも悪くも後の2名の昭和の[[剣戟映画]]の大スターに、歌舞伎の世界を捨てさせるきっかけを作った人物でもある。


<!--[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]が関西で芝居を行った際、上方の主だった役者が團十郎に同座する中、仁左衛門だけは同座せず、一人、無人芝居に加わり、劇場の前で「大敵とて恐るるなかれ。小敵とて侮るなかれ」と大書した幟を立てて、士気を鼓舞するなど、負けず嫌いな面もあれば、-->そうした反面、自らも幼くして父という後ろ盾を失い恵まれない環境から大成した人物であるだけに、立場の弱い者には損得勘定抜きで援助するという義侠心に富む面もあり、自身と同様に父と死に別れた[[實川延若 (2代目)|二代目實川延若]]や[[澤村宗十郎 (7代目)|七代目澤村宗十郎]]に特に目を掛け、鍛えて引き立てて大成させたのも十一代目の功績である。
<!--[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]が関西で芝居を行った際、上方の主だった役者が團十郎に同座する中、仁左衛門だけは同座せず、一人、無人芝居に加わり、劇場の前で「大敵とて恐るるなかれ。小敵とて侮るなかれ」と大書した幟を立てて、士気を鼓舞するなど、負けず嫌いな面もあれば、-->そうした反面、自らも幼くして父という後ろ盾を失い恵まれない環境から大成した人物であるだけに、立場の弱い者には損得勘定抜きで援助するという義侠心に富む面もあり、自身と同様に父と死に別れた[[實川延若 (2代目)|二代目實川延若]]や[[澤村宗十郎 (7代目)|七代目澤村宗十郎]]に特に目を掛け、鍛えて引き立てて大成させたのも十一代目の功績である。

2012年3月9日 (金) 15:40時点における版

じゅういちだいめ かたおか にざえもん
十一代目 片岡 仁左衛門

屋号 松嶋屋
定紋 七ツ割丸に二引 
生年月日 1858年1月18日
没年月日 (1934-10-16) 1934年10月16日(76歳没)
本名 片岡秀太郎
襲名歴 1. 初代片岡秀太郎
2. 三代目片岡我當
3. 十一代目片岡仁左衛門
俳名 我當・萬麿
八代目片岡仁左衛門
兄弟 十代目片岡仁左衛門
十三代目片岡仁左衛門

十一代目 片岡 仁左衛門(じゅういちだいめ かたおか にざえもん、安政4年12月4日1858年1月18日) - 昭和9年(1934年10月16日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した歌舞伎役者。主に立役屋号松嶋屋。定紋は七ツ割丸に二引。俳名に我當、萬麿。本名は片岡 秀太郎(かたおか ひでたろう)

実子に十三代目片岡仁左衛門

来歴・人物

安政5年(1858年)、八代目片岡仁左衛門の四男として江戸猿若町に生まれる。文久元年(1861)、本名の片岡秀太郎で初舞台。翌年父と兄・三代目片岡我童とともに大坂へ移るが、翌文久3年(1863年)父が死去。後ろ盾を失いながらも子供芝居で修業を続ける。

明治5年(1872年)ごろから大阪竹田の芝居などに出演、その才能が認められはじめる。2年後には兄とともに東京へ戻り、明治9年(1876年)3月、中村座で三代目片岡我當襲名。その後東京と大阪を往復しながら活躍する。

明治28年(1895年)に兄が急死すると、松嶋屋の屋台骨を背負う重責を負うようになる。そして明治40年(1907年)、大阪角座で十一代目片岡仁左衛門を襲名した。

その後は東京に腰を据えて、歌舞伎座の座頭となり、五代目中村歌右衛門十五代目市村羽左衛門とともに「三衛門」と謳われ、「團菊左」亡き後の東京歌舞伎を支えた。

十一代目の上京は、当時「五代目中村歌右衛門」の名跡を巡って大阪の初代中村鴈治郎と東京の四代目中村芝翫との間に争いが起こり、仁左衛門は芝翫を支持したために、関西では飛ぶ鳥を落とすほどの人気を誇った鴈治郎の支持者に囲まれて日々が日増しに居辛くなったからだといわれている。

大正元年(1912年)には長男の片岡千代之助のためにもなるからと、私財を投じて片岡少年俳優養成所を設立。後継者を育成し、若手俳優への芸の伝承にも尽くした。 

同年、坪内逍遥作『桐一葉』を初演。以後新歌舞伎に力を入れ、『桜時雨』『名工柿右衛門』などを初演した。

また従前人形浄瑠璃においてのみの演目だった『大文字屋』や『鰻谷』を歌舞伎化するなど、新しい芝居を作る独創性に長けていた。初代中村鴈治郎とは一時不仲を噂されるほどの対立関係にあったが、それだけに芸のしのぎを削り合う相手として張り合い、互いに研鑚しあっていた。十三代目の著書には、晩年は舞台を共にし、公私にわたって仲が良かったと書いている。

昭和9年(1934年)、大阪で甥の子にあたる五代目片岡芦燕の襲名披露興行に出ている最中に倒れ、そのまま死去。76歳だった。墓所は池上本門寺(東京都)。

人物

いわゆる天才肌の名人だったが、個性が強い上に気性が激しく、九代目市川團十郎や鴈治郎と衝突を度々くり返した当時の歌舞伎界でも指折りの要注意人物でもあった。たとえば、團十郎の態度が癪にさわると、團十郎の前で傘を開いて助六の見得を切る(『助六』は市川宗家のお家芸)。相方の口跡が気に入らないと、嫌みに台本を手に舞台に上がる。舞台に不要な物でも落ちていようものなら、これ見よがしにゴミ拾いをしながら舞台をつとめた。『熊谷陣屋』の弥陀六では、石鑿を投げたつもりで上手から舞台に出なければいけないのに、邪魔な奴が立っていると言ってはわざわざ下手から出て芝居をぶちこわす。『国性爺合戦・紅流し』の和藤内では、片足をかける橋の欄干の高さが気に入らないと言っては化粧を落として帰宅する。こうした逸話には枚挙に暇がない。その気性の激しさは晩年になっても相変わらずで、昭和2年(1927年)には、若手俳優たちの稽古中に「踊りが下手だ」とある有望株の若手俳優の顔面を真剣で殴打するという一件を起こし、その若手俳優はこれも一因となって程なく歌舞伎界と縁を切り映画界に転じてしまう結果になった。また、一緒に稽古をしていてこの一件を目撃した若手俳優の中でも嵐徳太郎は、「いくら才能があっても門閥如何では出世できないのか」とショックを受け、これまた歌舞伎役者を続ける意欲を無くして程なく映画界に転じてしまった。この真剣で殴打されたある若手俳優とは後の片岡千恵蔵であり、嵐徳太郎は後の嵐寛寿郎である。すなわち、良くも悪くも後の2名の昭和の剣戟映画の大スターに、歌舞伎の世界を捨てさせるきっかけを作った人物でもある。

そうした反面、自らも幼くして父という後ろ盾を失い恵まれない環境から大成した人物であるだけに、立場の弱い者には損得勘定抜きで援助するという義侠心に富む面もあり、自身と同様に父と死に別れた二代目實川延若七代目澤村宗十郎に特に目を掛け、鍛えて引き立てて大成させたのも十一代目の功績である。

十三代目片岡仁左衛門は、その著書『仁左衛門楽我記』の中で次のように述懐している:「あれは父のなくなる前の年でしたか、父が近々引退するらしいと言ううわさがたったことがありました。それを大阪で聞いたおじさん(初代鴈治郎)は、(中略)すぐその足で明舟町の家へ来られ『引退するてほんまか。引退なんかしたらあかん。体もよわるし、今からやめてどうするのや。もっともっと働いてくれな、どもならん』とまるで怒っているような語気で父に説いていられた姿が、今もまぶたに残っています。『せえへん、せえへん』と笑いながら答える父に、やっと安どしたように四方山の話をして、定宿の築地の細川に帰られたのは十時近かったと思います」(昭和57年、三月書房)

芸風

当り役は、丸本時代物では、『仮名手本忠臣蔵』九段目の本蔵、『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の菅丞相と「寺子屋」の松王丸、『妹背山婦女庭訓』の大判事、『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の弥陀六、『伊賀越道中双六』「沼津」の平作。和事、辛抱立役では『吉田屋』の伊左衛門、『近頃河原の達引』「堀川」の与次郎、「鰻谷」の八郎兵衛、「帯屋」の長右衛門、「吃又」の又平。新作では『桐一葉』の片桐且元、『桜時雨』の紹由、『名工柿右衛門』の柿右衛門。『伽羅先代萩』の政岡も当たり役だった。

どの役も至芸と呼ばれるもので、文字通り一代の名優だった。三宅周太郎の『片岡仁左衛門』の中に、六代目尾上菊五郎のことばとして、「團菊没後の本当の名人は十一代目仁左衛門だよ」と記されている。岡本綺堂は『妹背山』の大判事を評して「いざ段切れのノリになって『倅清舟承れ』以下となると、そのめりはりのうまいいいノドは歌舞伎座の隅々迄鳴り響いた」(大正6年3月)と絶賛している。

狂言作家の食満南北は、その著書『作者部屋から』の中で十一代目と鴈治郎の興味深い比較をしている:「仁左衛門は初日の巧い役者であった。そうして、だんだん舞台に飽きてきて、遂に餅も下げもならぬものにしてしまった。鴈治郎は初日より二日目、二日目より三日目、だんだん研究して飽くことをしらなかった。仁左衛門は稽古にすこぶる丁寧で舞台はやや粗雑であった。鴈治郎は稽古はどちらかというと嫌いの方だが、舞台では丁寧であった」(昭和19年、宋栄堂、新字体現代仮名遣いに置換)

なお十一代目は自らの得意芸を選び「片岡十二集」にまとめている。