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|氏名 = アンドレア・ドーリア
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'''アンドレア・ドーリア''' ('''Andrea Doria''' または'''D'Oria'''、[[1466年]][[11月30日]] - [[1560年]][[11月25日]])は、[[イタリア]]・[[ルネサンス]]期の[[軍人]]。[[コンドッティエーレ]]。[[ジェノヴァ共和国]]の名家[[ドリア家]]の出身。1522年に[[フランス王国|フランス]]海軍へ入り活躍するものの、1528年<ref>1528年それまでフランス領に組み入れられていた[[ジェノヴァ共和国#.E8.A1.B0.E9.80.80.E6.9C.9F]]は、共和国の経略の中枢である[[サン・ジョルジョ銀行]]を通じて神聖ローマ帝国皇帝カール5世への融資を始めた。</ref>以降は[[神聖ローマ帝国]]([[スペイン]])に雇われ海軍提督になる。1535年の[[チュニス]]での海戦では[[オスマン帝国]]海軍に勝利したものの、1535年の[[プレヴェザの海戦]]においては敗北した。以後も海軍提督として活躍したが、オスマン帝国から主導権を取り戻すことは出来なかった。当時としては非常に長命で、80代以降もバルバリア[[海賊]]駆逐のため現役として活躍していた。
'''アンドレア・ドーリア''' ('''Andrea Doria''' または'''D'Oria'''、[[1466年]][[11月30日]] - [[1560年]][[11月25日]])は、[[イタリア]]・[[ルネサンス]]期の[[軍人]]。[[コンドッティエーレ]]。[[ジェノヴァ共和国]]の名家[[ドリア家]]の出身。1522年に[[フランス王国|フランス]]海軍へ入り活躍するものの、1528年<ref>1528年それまでフランス領に組み入れられていた[[ジェノヴァ共和国#.E8.A1.B0.E9.80.80.E6.9C.9F]]は、共和国の経略の中枢である[[サン・ジョルジョ銀行]]を通じて神聖ローマ帝国皇帝カール5世への融資を始めた。</ref>以降は[[神聖ローマ帝国]]([[スペイン]])に雇われ海軍提督になる。1535年の[[チュニス]]での海戦では[[オスマン帝国]]海軍に勝利したものの、1535年の[[プレヴェザの海戦]]においては敗北した。以後も海軍提督として活躍したが、オスマン帝国から主導権を取り戻すことは出来なかった。当時としては非常に長命で、80代以降もバルバリア[[海賊]]駆逐のため現役として活躍していた。



2012年2月3日 (金) 10:49時点における版

アンドレア・ドーリア
アンドレア・ドーリア像、
セバスティアーノ・デル・ピオンボ
生誕 (1466-11-30) 1466年11月30日
イタリアの旗 イタリアリグーリア州オネリア英語版
死没 (1560-11-25) 1560年11月25日(93歳没)
イタリアの旗 イタリア・リグーリア州・ジェノヴァ
職業 コンドッティエーレアドミラル
雇用者 フランス。神聖ローマ帝国。
団体 海軍
肩書き 海軍提督
後任者 ジャンアンドレア・ドーリア
セヴァ・ドーリア(Ceva Doria)。
カラコサ・ドーリア(Caracosa Doria)。
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アンドレア・ドーリアAndrea Doria またはD'Oria1466年11月30日 - 1560年11月25日)は、イタリアルネサンス期の軍人コンドッティエーレジェノヴァ共和国の名家ドリア家の出身。1522年にフランス海軍へ入り活躍するものの、1528年[1]以降は神聖ローマ帝国スペイン)に雇われ海軍提督になる。1535年のチュニスでの海戦ではオスマン帝国海軍に勝利したものの、1535年のプレヴェザの海戦においては敗北した。以後も海軍提督として活躍したが、オスマン帝国から主導権を取り戻すことは出来なかった。当時としては非常に長命で、80代以降もバルバリア海賊駆逐のため現役として活躍していた。

関連項目

ジャンアンドレア・ドーリア ドーリア一族率いる傭兵艦隊の提督で、アンドレアの後継者。

脚注

  1. ^ 1528年それまでフランス領に組み入れられていたジェノヴァ共和国#.E8.A1.B0.E9.80.80.E6.9C.9Fは、共和国の経略の中枢であるサン・ジョルジョ銀行を通じて神聖ローマ帝国皇帝カール5世への融資を始めた。