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[[歌舞伎]]では、[[桜田治助|三代目櫻田治助]]作詞、[[岸澤式佐|五代目岸澤式佐]]・[[常磐津文字太夫|四代目常磐津文字太夫]]作曲によ[[常磐津]]の[[所作事]]の演目[[花翫暦色所八景]]』{{smaller|(はなごよみ いろの しょわけ)}}の中に、「年増」と題した曲目ある。
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==脚注==
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2011年12月11日 (日) 17:18時点における版

年増女(としま おんな)は、娘の年頃を過ぎた女性。女性の年齢によって、年増(としま)、中年増(ちゅうどしま)、大年増(おおどしま)などと区分することもあった。また年増のうちでも美しい時期を年増盛(としまざかり)とも呼んだ。

江戸時代には、数え20で年増、25で中年増、30で大年増と呼んだ[1]。戦後から昭和の頃までは、30歳以上の女性を年増と呼ぶことも多かったが[2]、現代では余程の事情でもない限り30代の女性を「年増」と呼ぶようなことはあまりなくなった。

武家の女性の結婚適齢期は十代後半から遅くて25歳、一般の女性は16歳から17歳が適齢期であり、19歳の女性はすでにトウが立っており、20代後半に差し掛かると大年増と呼ばれる[3]。30歳を超えた女性は大年増であり、ふさわしい結婚相手は再婚男性に限られる[4]

徳川家康は年増女を好んだといわれているが、関ヶ原の合戦には15歳-16歳の女性を伴った[5]

用例

  • 落語:初代米澤彦八 作『軽口御前男』「是は大きなとしまじゃ」
  • 素浄瑠璃:近松門左衛門 作『津国女夫池』(通称『千畳敷』)「としまのよねは、もん日におはるる」
  • 洒落本:夢中散人寝言先生 著『辰巳之園』「姉女郎あれば年廻あり」
  • 短編小説:徳田秋声 著『時の流れ』「この世界では、二十二三ともなれば、それはもう年増の部類で」
  • 短編小説:太宰治 著『ヴィヨンの妻』「旦那は、或る年増女に連れられて店の勝手口からこっそりはいってまいりましたのです」
  • 漫画:高橋留美子 作『めぞん一刻』「(ヒロインの響子が自分自身のことを)大年増ですわ」
  • 小説:森鴎外 著『余興』「見れば、柳橋で私の唯一人識っている年増芸者であった」

歌舞伎

歌舞伎では、三代目櫻田治助作詞、五代目岸澤式佐四代目常磐津文字太夫作曲による常磐津所作事『花翫暦色所八景』(はなごよみ いろの しょわけ)の八景のひとつが「年増」と通称される曲目である。

脚注

  1. ^ 日本国語大辞典』第二版 小学館
  2. ^ 『国語辞典』 旺文社
  3. ^ 中江克己『お江戸の武士の意外な生活事情』
  4. ^ 山本博文『江戸人のこころ』
  5. ^ 津本陽、童門冬二『徳川吉宗の人間学』p.321