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'''日祐'''(にちゆう、[[永仁]]6年([[1298年]]) - [[応安]]7年/[[文中]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]([[1374年]][[6月29日]]))は、[[鎌倉時代|鎌倉]]・[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[日蓮宗]]の[[僧]]。[[千葉胤貞]]の[[猶子]]<!--<ref>正東山古文書</ref>千葉宗胤の没年は、永仁2年(1294年)になっています。-->。[[下総国]]の出身。号は浄行院。
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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[千葉氏]]一族の子と伝えられ、千葉胤貞の[[猶子]]となる。胤貞の庇護下にあった[[日高 (僧)|日高]]に師事し、[[正和]]3年([[1314年]])中山本妙寺兼若宮法花寺(現在の[[法華経寺]])3世貫首となった。千葉胤貞流の[[千田氏]]・[[九州千葉氏]]の[[外護]]を受けて、[[房総]]を中心として[[勧進]]・[[結縁]]活動にあたり、[[日本寺 (多古町)|日本寺]]をはじめ、[[千田荘]]・[[八幡荘]]・[[臼井荘]]の各地に寺院を建立する<ref>『中山法華経寺文書』 元徳3年9月4日付 千葉胤貞譲状</ref><ref>『中山法華経寺文書』 観応3年4月25日付 千葉胤継寄進状など</ref>。また、[[富木常忍|日常]](法華経寺初代)・日高(法華経寺2世)が遺した[[日蓮]]真蹟である遺文の保存・整理に努め、更なる蒐集に努めた。また、毎年のように[[久遠寺]]の日蓮墓所に参詣を行い、[[天皇]]及び[[征夷大将軍|将軍]]([[室町幕府]])への奏聞のためにたびたび[[上洛]]を行う。更に千葉胤貞が[[肥前国]][[小城郡]]に所領を持つと、現地に赴いて[[光勝寺]]の[[開山]]となった。更に[[法華経]]の転読・写経の繰り返しや日蓮の教義に対する研究を深めて、『問答肝要抄』『宗体決疑抄』などを著した。墓所は中山法華経寺。
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== 脚注 ==
== 脚注 ==

2011年10月20日 (木) 22:01時点における版

日祐(にちゆう、永仁6年(1298年) - 応安7年/文中3年5月19日1374年6月29日))は、鎌倉南北朝時代日蓮宗千葉胤貞猶子下総国の出身。号は浄行院。

経歴

千葉氏一族の子と伝えられ、千葉胤貞の猶子となる。胤貞の庇護下にあった日高に師事し、正和3年(1314年)中山本妙寺兼若宮法花寺(現在の法華経寺)3世貫首となった。千葉胤貞流の千田氏九州千葉氏外護を受けて、房総を中心として勧進結縁活動にあたり、日本寺をはじめ、千田荘八幡荘臼井荘の各地に寺院を建立する[1][2]。また、日常(法華経寺初代)・日高(法華経寺2世)が遺した日蓮真蹟である遺文の保存・整理に努め、更なる蒐集に努めた。また、毎年のように久遠寺の日蓮墓所に参詣を行い、天皇及び将軍室町幕府)への奏聞のためにたびたび上洛を行う。更に千葉胤貞が肥前国小城郡に所領を持つと、現地に赴いて光勝寺開山となった。更に法華経の転読・写経の繰り返しや日蓮の教義に対する研究を深めて、『問答肝要抄』『宗体決疑抄』などを著した。墓所は法華経寺。

脚注

  1. ^ 『中山法華経寺文書』 元徳3年9月4日付 千葉胤貞譲状
  2. ^ 『中山法華経寺文書』 観応3年4月25日付 千葉胤継寄進状など

参考文献