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2011年8月2日 (火) 03:32時点における版
神宮備林(じんぐうびりん)とは、かつて、帝室林野局(現宮内庁、林野庁)が、伊勢神宮の式年遷宮用のヒノキを確保、育成を目的とした林、および指定された地域である。現在の長野県木曽郡と岐阜県中津川市の阿寺山地にある。
伊勢神宮の神宮林の備え(予備)という事から名づけられたという。
現在は神宮備林という名ではなく、国有林の一部の扱いである。しかし、旧神宮備林、神宮備林、旧御料林、御料林などの名称で呼ばれている。
概況
- 長野県木曽郡上松町、王滝村、大桑村、と岐阜県中津川市(旧加子母村、付知町)などにまたがり、約8,000haの広さがある。
- 現在は国有林の一部であり、林野庁中部森林管理局が管理、運営している。ここのヒノキは慣例により、式年遷宮用に優先的にまわされる。
- 継続的に用材が供給できるように、樹齢200年から300年の用材の安定提供が可能なように計画的に植林された。神宮備林でなくなった現在も、その手法で運営されている。
神宮備林の由来
- 伊勢神宮で20年毎に行なわれる式年遷宮は、大量のヒノキが必要である。その用材を伐りだす山(御杣山・みそまやま)は、第34回式年遷宮までは、3回ほど周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山、高倉山という内宮・外宮背後の山(神宮林)であった。
- しかし、1回の遷宮で使用されるヒノキは1万本以上になり、神宮林のヒノキでは不足しだす。その為、内宮用材は第35回式年遷宮から三河国に、外宮用材は第36回式年遷宮から美濃国に移り、第41回式年遷宮から第46回式年遷宮までは、伊勢国大杉谷に移る。
- しかしながら、原木の枯渇による伐り出しの困難さから、1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曾谷、裏木曽に御杣山は移動する。この地域は尾張藩により木材(木曽五木)が保護され、許可の無い伐採が禁じられていた。
- 正式に指定、伐採が始まったのは、1798年(寛政10年)からである。
- 現在でも式年遷宮用の用材は、この旧神宮備林から調達されている。
歴史
- 1380年(天授6年・康暦2年):第36回式年遷宮で美濃国のヒノキが使用される。
- 1709年(宝永6年):第47回式年遷宮で、尾張藩領木曽のヒノキが使用される。
- 1798年(寛政10年):伊勢神宮により御杣山に指定される。
- 1843年(天保12年):守護神として護山神社が創建される。
- 1868年(明治元年):尾張藩から明治政府に移管される。御料林となる。
- 1906年(明治39年):帝室林野局により「神宮御造営材備林制度」が制定され、この地域の御料林が神宮備林に指定される。この後、大正時代にかけてその地域を拡大する。
- 1921年(大正10年):ダム建設の影響で、木曽川、付知川などを使用した筏による材木運搬が中止。森林鉄道による運搬が始まる。
- 1947年(昭和22年):帝室林野局は農林省林野庁となる。神宮備林は廃止され、国有林の一部となる。
その他
- 伊勢神宮は1923年(大正12年)に森林経営計画を策定し、再び神路山・高倉山を御杣山とすべく、1925年(大正14年)からヒノキの植林を続けている。ヒノキの生長には200年はかかるため、本格的に使用されるのは2125年、また重要用材も25世紀には供給しようという遠大な計画である。
- すでにこの植林によるヒノキの間伐材は遷宮の用材として使われ始めているが、主な用材は旧神宮備林でまかなわれている。