「八色の姓」の版間の差分
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'''八色の姓'''(やくさのかばね)とは、[[天武天皇]]が[[684年]](天武13)に新たに制定した[[真人]](まひと) [[朝臣]](あそみ・あそん) [[宿禰]](すくね) [[忌寸]](いみき)[[道師]](みちのし) [[臣]](おみ) [[連]](むらじ) [[稲置]](いなぎ)の八つの姓の制度のこと。 |
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この時定められた姓は文字通り8種類あって、上から[[真人]](まひと) [[朝臣]](あそみ・あそん) [[宿禰]](すくね) [[忌寸]](いみき)[[道師]](みちし) [[臣]](おみ) [[連]](むらじ) [[稲置]](いなぎ)と言う順列がつけられていた。 |
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==姓を賜う== |
==姓を賜う== |
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:[[685年]](天武14)6月、大和連など11氏に、忌寸の姓を授ける。 |
:[[685年]](天武14)6月、大和連など11氏に、忌寸の姓を授ける。 |
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== 新しい身分秩序 == |
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実際に賜ったのは、真人・朝臣・宿禰・忌寸の上位四姓であった。臣・連の中から天皇一族と関係の深いものだけを抽出し、真人・朝臣・宿禰の姓を与え、新しい身分秩序を作り出し、皇族の地位を高めた。 |
実際に賜ったのは、上の年表にあるように、真人・朝臣・宿禰・忌寸の上位四姓であった。旧来の臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)という身分秩序にたいして、臣・連の中から天皇一族と関係の深いものだけを抽出し、真人・朝臣・宿禰の姓を与え、新しい身分秩序を作り出し、皇族の地位を高めた。上級官人と下級官人の家柄を明確にすると共に、中央貴族と地方豪族とをはっきり区別した。 |
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ただし、すべての姓をこの制度に当てはめるということは行われず、従来あった姓はそのまま残された。そのために古くからあった姓、臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやっこ)などもそのまま残っていた。従来から有った、'''臣'''、'''連'''の姓の上の地位になる姓を作ることで、旧来の氏族との差をつけようとしたという見方もできる。 |
ただし、すべての姓をこの制度に当てはめるということは行われず、従来あった姓はそのまま残された。そのために古くからあった姓、臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやっこ)などもそのまま残っていた。従来から有った、'''臣'''、'''連'''の姓の上の地位になる姓を作ることで、旧来の氏族との差をつけようとしたという見方もできる。 |
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==真人== |
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真人は、本来貴人に対する尊称で、新羅の真骨に倣ったものといい、[[継体天皇]]以降の天皇の近親の後裔で従来公姓を称した氏族に与えられた。 |
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八色の姓が制定された当初、朝臣姓は、臣姓のうち有力氏族と連姓など一部に与えられ、宿禰姓は、連姓をもつ有力氏族に多く与えられ、忌寸姓は、渡来系の有力氏族に与えられたようである。 |
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[[奈良時代]]から[[平安時代]]に至って、[[源氏|源]]・[[平氏|平]]・[[藤原氏|藤]]・[[橘氏|橘]]の四姓が隆盛になると、その末裔の姓はほとんどが朝臣になってしまい、姓そのものの意味がなくなっていった。 |
[[奈良時代]]から[[平安時代]]に至って、[[源氏|源]]・[[平氏|平]]・[[藤原氏|藤]]・[[橘氏|橘]]の四姓が隆盛になると、その末裔の姓はほとんどが朝臣になってしまい、姓そのものの意味がなくなっていった。 |
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==関連項目== |
==関連項目== |
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*[[氏姓制度]] |
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*[[新撰姓氏録]] |
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*[[冠位・官位制度の変遷]] |
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[[Category:人名|やくさのかはね]] |
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2005年12月14日 (水) 07:34時点における版
八色の姓(やくさのかばね)とは、天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した真人(まひと) 朝臣(あそみ・あそん) 宿禰(すくね) 忌寸(いみき)道師(みちのし) 臣(おみ) 連(むらじ) 稲置(いなぎ)の八つの姓の制度のこと。
『日本書紀』の天武天皇十三年冬十月の条に、「詔して曰はく、更諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混(まろか)す。一つに曰く、真人。二つに曰く、朝臣。三つに曰く、宿禰。四つに曰く、忌寸。五つに曰く、道師。六つに曰く、臣。七つに曰く、連。八つに曰く、稲置」とある。
姓を賜う
- 682年(天武11)8月、官人の考選に族姓を重んじる。
- 683年(天武12)9月、倭直(やまとのあたい)など38氏に連の姓を授ける。
- 684年(天武13)10月、守山公・路公・高橋公・三国公・当麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・息長公・酒人公・山道公・十三氏公・など13氏に真人の姓を授ける。
- 684年(天武13)11月、大三輪君など52氏に朝臣の姓を授ける。
- 12月、大伴連など50氏に宿禰の姓を授ける。
- 685年(天武14)6月、大和連など11氏に、忌寸の姓を授ける。
新しい身分秩序
実際に賜ったのは、上の年表にあるように、真人・朝臣・宿禰・忌寸の上位四姓であった。旧来の臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)という身分秩序にたいして、臣・連の中から天皇一族と関係の深いものだけを抽出し、真人・朝臣・宿禰の姓を与え、新しい身分秩序を作り出し、皇族の地位を高めた。上級官人と下級官人の家柄を明確にすると共に、中央貴族と地方豪族とをはっきり区別した。
ただし、すべての姓をこの制度に当てはめるということは行われず、従来あった姓はそのまま残された。そのために古くからあった姓、臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやっこ)などもそのまま残っていた。従来から有った、臣、連の姓の上の地位になる姓を作ることで、旧来の氏族との差をつけようとしたという見方もできる。
また、のちの冠位制度上の錦冠の官僚を出すことのできるのは真人、朝臣、宿禰、忌寸の姓を持つ氏に限られていたようである。
奈良時代から平安時代に至って、源・平・藤・橘の四姓が隆盛になると、その末裔の姓はほとんどが朝臣になってしまい、姓そのものの意味がなくなっていった。