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'''川本 大輔'''(かわもと だいすけ、[[1982年]][[5月18日]] - )は、[[広島県]][[三原市]]出身の元[[プロ野球選手]]。[[血液型]]はA型。 |
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== 来歴・人物 == |
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三原中央シニア時代は全日本にエースとして出場、[[広陵高等学校]]時代は3年春に[[選抜高等学校野球大会|センバツ]]出場、夏に広島県大会ベスト8入りを果たす。[[2000年]][[ドラフト会議|ドラフト]]5位で[[読売ジャイアンツ]]入団。 |
三原中央シニア時代は全日本にエースとして出場、[[広陵高等学校]]時代は3年春に[[選抜高等学校野球大会|センバツ]]出場、夏に広島県大会ベスト8入りを果たす。[[2000年]][[ドラフト会議|ドラフト]]5位で[[読売ジャイアンツ]]入団。 |
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台湾移籍も視野に入れていた(尚、台湾移籍を目指したときの仲介役は、広陵高校の先輩で元[[パ・リーグ]]審判員の[[橘修]]や、前投手コーチの[[鹿取義隆]]である)が、今は[[ゼット (企業)|ゼット]]の社員として第2の人生を歩んでいる。 |
台湾移籍も視野に入れていた(尚、台湾移籍を目指したときの仲介役は、広陵高校の先輩で元[[パ・リーグ]]審判員の[[橘修]]や、前投手コーチの[[鹿取義隆]]である)が、今は[[ゼット (企業)|ゼット]]の社員として第2の人生を歩んでいる。 |
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*[[2001年]]10月9日、[[コスモス・リーグ|教育リーグ]]・ダイエー戦前、試合中のブルペンで[[佐藤宏志]]が[[加藤健]]を相手に投げ込んでいたところ、そこに現れた川本が佐藤の隣で[[村田善則]]相手にピッチングを始めた。カーブが凄い勢いで曲がり、投げた川本も周囲の3人も目を丸くした。構えたところにドンピシャのストライクで、ボールは隣のキャッチャー・加藤のミットに収まっていたのである。「あれは打てませんね…」と川本。 |
*[[2001年]]10月9日、[[コスモス・リーグ|教育リーグ]]・ダイエー戦前、試合中のブルペンで[[佐藤宏志]]が[[加藤健]]を相手に投げ込んでいたところ、そこに現れた川本が佐藤の隣で[[村田善則]]相手にピッチングを始めた。カーブが凄い勢いで曲がり、投げた川本も周囲の3人も目を丸くした。構えたところにドンピシャのストライクで、ボールは隣のキャッチャー・加藤のミットに収まっていたのである。「あれは打てませんね…」と川本。 |
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*[[2002年]]6月、近鉄から移籍してきた[[田畑一也]]が川本をキャッチボールに誘ったところ、「やり始めたら、なぜか狙ったところにいくんです。どうしてだかは分からないんですけど」。いつの間にか田畑の構えるクラブに無心に投げこんでいた。田畑が川本に、体を思い切り使う野球の原点を思い出させた。 |
*[[2002年]]6月、近鉄から移籍してきた[[田畑一也]]が川本をキャッチボールに誘ったところ、「やり始めたら、なぜか狙ったところにいくんです。どうしてだかは分からないんですけど」。いつの間にか田畑の構えるクラブに無心に投げこんでいた。田畑が川本に、体を思い切り使う野球の原点を思い出させた。 |
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*幼い頃は西武ファンで、地元の広島は練習が厳しいということで敬遠気味だった。 |
*幼い頃は西武ファンで、地元の広島は練習が厳しいということで敬遠気味だった。 |
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==詳細情報== |
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=== 年度別投手成績 === |
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*一軍公式戦出場なし |
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=== 背番号 === |
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*'''92'''(2001年 - 2004年) |
*'''92'''(2001年 - 2004年) |
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2011年7月16日 (土) 16:43時点における版
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県三原市 |
生年月日 | 1982年5月18日(41歳) |
身長 体重 |
180 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2000年 ドラフト5位 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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川本 大輔(かわもと だいすけ、1982年5月18日 - )は、広島県三原市出身の元プロ野球選手。血液型はA型。
来歴・人物
三原中央シニア時代は全日本にエースとして出場、広陵高等学校時代は3年春にセンバツ出場、夏に広島県大会ベスト8入りを果たす。2000年ドラフト5位で読売ジャイアンツ入団。
サイドスローから最速142km/hのストレートとカーブ・スライダー・チェンジアップなど多彩な変化球を繰り出す本格派だったことから、斎藤雅樹2世と言われた。
ルーキーだった2001年、プロの厳しさを痛感、自信を失ってしまい、2002年3月19日の教育リーグ・日本ハム戦に先発したが、8連続を含む11四死球を与え2死しかとれず降板。参考記録ながら1イニング11四死球という不名誉な記録を打ち立てた。いわゆる投球恐怖症である。川本は入団した当時からその症状があり、オーバースローに変更したがストライクが入らず、サイドスローに戻しても結果は同じだったという。
そんな川本を支えたのが広陵の中井哲之監督であり、何度も電話して励ましを受けたのに加え、同年10月13日にも修学旅行で上京していた恩師と会食。「自信を持ってやれ」と激励され、16日の好投で本来の自分をアピールし投球恐怖症を克服。
だが、一軍登板がないまま2004年10月7日に戦力外通告を受けた。合同トライアウトを受けたがどの球団からも声がかからなかった。
台湾移籍も視野に入れていた(尚、台湾移籍を目指したときの仲介役は、広陵高校の先輩で元パ・リーグ審判員の橘修や、前投手コーチの鹿取義隆である)が、今はゼットの社員として第2の人生を歩んでいる。
エピソード
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 2001年10月9日、教育リーグ・ダイエー戦前、試合中のブルペンで佐藤宏志が加藤健を相手に投げ込んでいたところ、そこに現れた川本が佐藤の隣で村田善則相手にピッチングを始めた。カーブが凄い勢いで曲がり、投げた川本も周囲の3人も目を丸くした。構えたところにドンピシャのストライクで、ボールは隣のキャッチャー・加藤のミットに収まっていたのである。「あれは打てませんね…」と川本。
- 2002年6月、近鉄から移籍してきた田畑一也が川本をキャッチボールに誘ったところ、「やり始めたら、なぜか狙ったところにいくんです。どうしてだかは分からないんですけど」。いつの間にか田畑の構えるクラブに無心に投げこんでいた。田畑が川本に、体を思い切り使う野球の原点を思い出させた。
- それが投球恐怖症を克服させるきっかけになり、7月4日のイースタン・リーグ・湘南戦で1回を無失点に抑え、自信を取り戻した。25日の日本ハム戦でも1回無失点。いずれも四死球は与えなかった。
- 幼い頃は西武ファンで、地元の広島は練習が厳しいということで敬遠気味だった。
詳細情報
年度別投手成績
- 一軍公式戦出場なし
背番号
- 92(2001年 - 2004年)